来年・平成30年(2018)は、明治維新150年であると共に、板垣退助百回忌をむかえる年となります。かつては100円札の肖像としても親しまれていた板垣退助ですが、今では、殆どTVでも取り上げられておりません。本会では、そんな板垣伯にスポットを当て、板垣の幼少期からわかりやすく解説していきます。
法人化記念、発会式兼記念講演を行います。記念講演は「退助の幼少期~戊辰戦争」までの内容を予定しております。知っているようで、知らなかった板垣退助の生涯をわかりやすく解説します。
●『板垣退助の先祖・幼少期~戊辰戦争』
●主催:一般社団法人 板垣退助先生顕彰会
『板垣退助先生顕彰会「発会式」兼「記念講演」ご案内フライヤー.PDF』
当日、「何か手伝えることはありませんか?」と駆けつけて下さった方々も多数おられました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
記念講演のテーマは【板垣退助の先祖~幼少期~戊辰戦争】。板垣は、一般には白髭の御爺さんのイメージがあるかもしれませんが、第一回講演ということで、もっと遡り、国体の根源である「天壌無窮
締めくくりは、板垣が「一君万民・四民平等」の考えに目覚めた、有名な【会津落城 芋の話】となりました。
5.中岡慎太郎との交遊、薩土討幕の密約。のち土佐藩を一藩勤王に導く。
1)文久3年(27歳)8月、京都政変後、中岡慎太郎が退助を訪問。互いに討幕を誓う。
9月5日、中岡慎太郎脱藩。(同月21日、武市瑞山ら捕縛。土佐勤王党弾圧さる)
2)退助、復職し、藩の仕置役となる。文久4年/元治元年(1864) 28歳 7月、町奉行となる。8月、藩の大監察に任ぜられ、後藤象二郎とともに容堂侯を補佐し、藩政運営の中核となるが、藩政の方針と対立して意見が容れられず失脚。元治2年、総ての役職を被免。さらに先の在職中、責任を問責され謹慎。
6. 洋式騎兵修行のため江戸へ
同年4月1日、謹慎が解けて、洋式騎兵修行のため江戸へ。閏5月、武市瑞山が切腹を命ぜられ、退助は、江戸で瑞山の悲報に接する。幕臣および他藩の士と交わり世の動静を察す。
7. 薩長同盟成立。
慶應2年(1866) 30歳1月、薩長同盟成立。6月7日、第二次長州征伐が始まる。騎兵修行の命が解かれる。
8. 水戸浪士隠匿事件~薩土武力倒幕密約
慶應3年(1867) 31歳2月、土佐藩邸へ水戸浪士・中村勇吉、相良総三らを匿う。
5月21日、小松帯刀邸で、乾退助、中岡慎太郎、谷干城、西郷隆盛らが討幕挙兵を約する。薩土討幕の密約を締結。土佐藩邸に隠匿の水戸勤皇浪士を薩摩藩に移す。
9.大政奉還についての意見。
同年7月8日、後藤象二郎が山内容堂公へ「大政奉還」の策を進言の時、退助はこの
策を聞いて喜ばず、
「『大政返上』の名は美なるも、畢竟空名(有名虚実)にすぎぬ。今、朝廷が之によって天下に号令せんとするも、実権が伴はなければ、真実、『大政を奉還した』とは云へぬ」
と述べたが、退助の議は入れられず、7月13日、容堂公は大政奉還の建議を認可。
10.土佐藩の軍令改革を行い近代的部隊を創設
脱藩を決意したが、土佐藩は逆に正式に退助を藩の軍令改革の主導者として抜擢。大監察(大目付)、土佐藩軍備総裁。退助は、兵制を改革し、北條流弓隊を廃止して、銃隊を作り武力討幕に備う。慶応3年8月20日、アメリカ留学を命ぜられる(実現せず)。土佐藩歩兵大隊司令を兼任。結局、10月3日、後藤象二郎らの主導により山内容堂公を経て、「大政奉還建白書」が幕閣に提出されてしまう。歩兵大隊司令を解任。10月8日(1867年11月3日)、武力討幕に関する言動を警戒され、土佐藩歩兵大隊司令を解任される。
11.薩長両藩に「討幕の密勅」が下る。
10月13日、薩長両藩に「討幕の密勅」が下る。10月14日、第15代将軍・徳川慶喜が「大政奉還」を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許せらる。10月19日、「大政奉還」が勅許されたことにより、武力討幕を一貫して主張した退助は総ての役職を免ぜられ失脚。さらに中岡慎太郎、坂本龍馬が暗殺され、討幕派は危機をむかえる。
12.王政復古の大号令~戊辰戦争
1)12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が発せられる。かつて土佐藩に隠匿していた浪士が庄内藩と係争。慶應4年/明治元年(32歳)1月3日、鳥羽・伏見の合戦が勃発。薩土討幕の密約に基づき土佐藩は参戦。谷干城ら早馬で京都より国許へ開戦を伝達。
7日、逆賊・徳川慶喜追討の大号令。
2)直ちに失脚を解かれた退助は、8日、迅衝大隊司令に任ぜられ、京都出征を命ぜられる。
13日、迅衝隊600余名を率いて高知を発す。2月9日、官軍東山道先鋒総督府参謀を拝命。
14日、東征の途に就く(先祖・板垣信方320年の命日にあたる)。18日、美濃大垣に至り、「乾」姓を「板垣」に復す。甲州勝沼の戦い。3月5日、甲府城に入り、3月6日、甲州勝沼で、大久保大和(近藤勇)を撃破。江戸へ進軍。板垣への人気が高まり「断金隊」が結成され官軍を助ける。3月18日、江戸に入り、江戸城を無血開城させ、下野に進軍。
3)日光東照宮を兵火から守る。閏4月1日、大鳥圭介らが率いる伝習隊を宇都宮、安塚、今市の各地を転戦しこれを撃破して東北へ。
13.彰義隊による輪王寺宮拉致事件~彰義隊偽勅事件
恭順を拒否して寛永寺を占拠した彰義隊は、5月15日、合戦に負けると輪王寺宮(北白川宮能久親王)を拉致。さらに「朝敵」と呼ばれるのを避けるため、輪王寺宮に即位を強要。6月15日、三種の神器も保持せぬまま即位式を強行。傀儡として「東武皇帝」の帝号と僭称させ、翌6月16日、偽年号「大政」に改元の偽勅を宣して「偽帝」を奉戴した。
14.会津・庄内藩による蝦夷地売却未遂事件
『ドイツ連邦軍事文書館』所蔵文書によれば、会津・庄内藩が「蝦夷地」売却を画策。7月、ビスマルクはこれを認可。「100平方ドイツマイル(5,625平方km)の土地を得るのに30万メキシコ・ドルで充分であろう」と交渉。朝敵勢力は、蝦夷地へ逃れ、「蝦夷共和国」の樹立を宣言。(勝てば官軍という言葉は、皇室の権威を蔑ろにする不敬発言)
16.会津征伐
1)大村益次郎は枝を刈って幹を枯らす作戦を主張。板垣は幹を倒して勝機を逃さずの作戦。
2)会津落城芋の話。身分格差の強い会津藩に土佐藩兵は驚く。会津庶民は鶴ヶ城の落城を高みの見物で、われ関せず。
3)板垣の戦略。近藤を蹴散らした甲陽鎮撫隊との合戦。甲州城に入城する際、乾姓を板垣と復姓し地元の武田尊崇に訴えかけた心理戦術。母成峠を抜き、十六橋(じゅうろっきょう)を急襲して会津軍の度肝を抜き、会津市街戦突入のタイミング。これらは兵学を座学で学んだだけでは体得できず、板垣でなくては成し得なかった作戦の連続。しかし、勘違で切腹した白虎隊は神様のように評価され、日本を近代国家たらしめん為に本当に戦った人々、勇猛果敢に戦った官軍は、貶められた評価。西郷が征韓論争で下野した時、中央政府が最も恐れたのが板垣の動向。
4)天杯を賜う。11月1日、参内、諸隊江戸城西丸において、天皇陛下の御閲兵を受ける。更に藩庁より軍賞として増知六百石、役領知二百石被下置、家老格に被仰付、御感状並に御刀一口被遣之。迅衝隊士も土佐に帰国後、上士格に昇進する栄誉を賜わる。
17.明治維新
1)慶応4年3月14日明治天皇の「五箇条の御誓文」。明治3年(1870) 34歳。高知藩大参事(家老)となる。「孛仏戦争」視察のためヨーロッパへ派遣命令が出る(実現せず)。
2)「四民平均の理」を発表。明治三年(1870)12月
「夫れ人間は天地間活動物の最も貴重なるものにて、特に霊妙の天性を具備し、知識技能を兼有し、所謂万物の霊と称するは固より士農工商の隔てもなく、貴賎上下の階級に由るにあらざるなり。然るに文武の業は自ずから士の常職となりて、平生は廟堂に坐して政権を持し、一旦緩急あれば兵を執り乱を揆する等独り士族の責のみに委し、国家の興亡安危に至っては平民かつて与(あずか)り知らず、坐視傍観の勢となり行きしは、全く中古封建制度の弊にして、貴重霊物の責を私し、賤民をして愈々賤陋習ならしめし所以なり。方今王政一新、宇内の変革に基き、封建の旧を変じ郡県の政体を正さんとするに当て、当藩今日大改革の令を発するは、固より朝旨を遵奉し王政の一端を掲起せんと欲すればなり。故に主として士族文武常職の責を広く民庶に推亘し、人間は階級によらず貴重の霊物なるを知らしめ、各自に知識技能を奨励し、人々をして自主自由の権を与え、悉皆(しっかい)其志願を遂げしむるを庶幾するのみ」
また「議事院を開くの議」には
「凡そ政府は民の為めに設くる所にして、政府の為めに民を役するにあらざるなり。唯人民自主自由の権を有し各々其所を得、其業を遂ぐるは政府の保護と裁判とにあるのみ。然るに其保護裁判の宜しきを得んとすれば、官民一致、上下合議の旨を執るにあらざれば、壅蔽阻隔(ようへいそかく)してややもすれば争乱を生じ、国家の敗覆を致すもの鮮なからず。是れ政府に於いて議事院を建て、衆議を採り公論に基づく所以なり」
18.近衛連隊(国軍)を創設 – 薩・長・土の三藩兵を朝廷に献ず
明治4年(1871) 35歳。特に土佐藩は、歩兵第二大隊、騎兵二小隊、砲兵二大隊を献じた。
19. 廃藩置県
7月14日、西郷、大久保、木戸と板垣が協議し、廃藩置県の制が発せられる。
20.その後
明治6年(37歳)10月、征韓論破裂。23日、西郷隆盛、参議を辞す。板垣らもこれに続き
自由民権運動、国会開設、大日本国憲法制定、近代国家へ。
21.板垣退助と大江卓が交わした会話。人種差別を撤廃し白人社会専制ではなくアジア人が
共生できる社会を作る。そのためには日本が率先して盟主とならねばならない。
22.大正8年(83歳)7月16日薨去。従一位に昇叙、特に陛下より誄詞を御下賜あらせらる。
誄詞(るいし)
軍に東征に従ひ、謀に戎幕に参し、大政の維新に際会して立憲の鴻謨(こうぼ)に賛襄(さんじょう)し、運籌(うんちゅう)機に合し献献(こんこん)時に應ず。精誠(せいせい)公に奉(ほう)し、出處渝(かは)ること無し。奄長(えんちょう)逝(ゆく)を聞く。曷(いずく)んぞ軫痛(しんつう)に勝(た)へむ。茲(ここ)に侍臣(じしん)を遣はし賻(ふ)を齎(もた)らして以て弔せしむ。
大正八年七月十八日 御名御璽
孫・板垣守正が退助の遺志を継いで爵位返上。力士16名が棺を担いだ。
21.統括
22.質疑応答