板垣退助先生顕彰会法人化記念・発会式兼記念講演

来年・平成30年(2018)は、明治維新150年であると共に、板垣退助百回忌をむかえる年となります。かつては100円札の肖像としても親しまれていた板垣退助ですが、今では、殆どTVでも取り上げられておりません。本会では、そんな板垣伯にスポットを当て、板垣の幼少期からわかりやすく解説していきます。

法人化記念、発会式兼記念講演を行います。記念講演は「退助の幼少期~戊辰戦争」までの内容を予定しております。知っているようで、知らなかった板垣退助の生涯をわかりやすく解説します。


【大阪会場】
●とき:平成29年6月11日(日) 13:30(開場)
●ところ:大阪府大阪市北区太融寺町3-7
              太融寺本坊
●発会式:参加費2千円
●記念講演:明治維新の元勲・板垣退助に学ぶ

●『板垣退助の先祖・幼少期~戊辰戦争』

●主催:一般社団法人 板垣退助先生顕彰会
板垣退助先生顕彰会「発会式」兼「記念講演」ご案内フライヤー.PDF


「板垣退助先生顕彰会」法人化・発会式

明治維新150年・板垣退助百回忌へ向けて、昭和43年、高知「財団法人板垣会(現 NPO法人板垣会)」寺尾豊会長の呼びかけによって東京で結成された「板垣退助先生顕彰会」。49年を経てその志を受け継ぎ、来るべき来年(平成30年)の「明治維新150年・板垣退助百回忌」へ向け、大阪「太融寺」の【国会期成同盟誕生地】の石碑前で、法人化・発会式を行いました。

 

「発会式」および「記念講演」

【日本に国会を作ろう!】と、日本で最初に話し合った場所がここ大阪・太融寺になります。


会場パネルの準備(太融寺本坊・本会撮影)

マイクのテストや、記念講演で使用するパネルの準備で大忙し。

 

当日、「何か手伝えることはありませんか?」と駆けつけて下さった方々も多数おられました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。


発会式祝辞拝読(太融寺本坊・本会撮影)

定刻どおり発会式を開会。
理事・長尾先生の秘書さまより、発会の祝辞。奈良県御所市副議長・杉本先生から祝電などあり、発会式に花を添えて頂きました。

 

記念講演のテーマは【板垣退助の先祖~幼少期~戊辰戦争】。板垣は、一般には白髭の御爺さんのイメージがあるかもしれませんが、第一回講演ということで、もっと遡り、国体の根源である「天壌無窮


発会式記念講演(太融寺本坊・本会撮影)

の御神勅」から始まり、御歴代天皇、板垣の先祖・武田家と板垣家のつながり、幼少時代のエピソードなど盛沢山の内容。生涯を通して「勤皇」を貫き、「愛国心」を以て「自由民権」を唱えた板垣に相応しいものではないでしょうか。

 

締めくくりは、板垣が「一君万民・四民平等」の考えに目覚めた、有名な【会津落城 芋の話】となりました。


「国会期成同盟誕生地」石碑前にて(太融寺中庭)

発会式にお集まり下さいました皆様と「国会期成同盟誕生地」石碑前にて記念撮影。
この他にも、お時間の関係で写真撮影までにお帰りになられた方、シャッターを押して下さった為に写っておられない方(記念図書には掲載されます。ご安心ください)もおられますが、皆様ありがとうございました。


発会式会場 太融寺(当日・本会撮影)

大阪「太融寺」は、毎年、高知で板垣退助の法要を行っている高知「高野寺」と同じ真言宗の寺院で、板垣退助の「自由民権運動」とも縁の深いお寺です。
板垣家の2代目・乾金右衛門正行夫妻の墓がある、高知「安楽寺」(※「薫的神社」横)も真言宗のお寺で、いろいろな偶然とつながりに感謝。


板垣退助の先祖~幼少期~戊辰戦争レジュメ (板垣退助先生顕彰会編)
1.板垣退助の現在の評価は?
1)来年は明治維新150年、板垣薨去100回忌。高知では「維新博」を開催。だが、明治維新での活躍を板垣を知らない人が多い。
2)名言「板垣死すとも…」は、板垣が暗殺されに時に発した言葉と思っているまでいる。
3) 板垣退助の伝記類の問題点。司馬遼太郎も平尾道雄も、板垣家・乾家に一切取材せず。
2.板垣の先祖
 1)板垣家のはじまり。板垣三郎兼信
2)板垣駿河守信方が、武田信虎の家臣で、武田信玄晴信の傅役(もりやく)。
3)板垣信憲の不業績~板垣正信が、天正18年(1590)遠江 掛川で山内一豊に仕官するまで。
4)板垣信方-信憲-正信-正行-正祐-正方-正清-直建-正聡-信武-正成-正形(退助)
5)乾正聡 – 退助の曾祖父 – 武田流軍学者。頓智「駕籠の話」、「婚礼の話」、「乾家の松」。
6)乾正成 – 退助の父-正妻は5人。馬の話。「乱心」とされて改易を免除。禄減の事。
3.板垣退助誕生
1)誕生と幼名。「いのす」(猪之助)と「やす」(後藤保弥太)
2)逸話「偽りの雷雨」。相撲と板垣。(「国技館」の命名委員長。土俵で命名を宣言)
3)少壮気鋭。喧嘩と武士道。鏡川と蝦蟇の油。どこまでが迷信かを試す。貧婦に慈愛。
4)「盛組(さかんぐみ)」の首領。正論を好んで譲らず。15歳の喧嘩。18歳 江戸勤番。
4.青年期
1) 20歳乱闘事件。惣領職褫奪、城下四ケ村禁足。神田村に謹慎していた人物は、吉田東洋、岩崎弥太郎。
2)吉田東洋の先祖は、長宗我部家の旧臣。東洋は公武合体。退助は勤皇武力討幕。
3)退助4年間謹慎中、父死去。安政6年(1859) 23歳 恩赦で家督相続。父喪中に河原で相撲大会。翌年発覚して知行50石減。220石。その後、免奉行に登用された理由。
4)文久元年(1861) 25歳 ロシア帝国の軍艦による対馬「芋崎」永久租借を要求占拠事件(ポサドニック号事件」が勃発)。世論は沸騰。退助は江戸へ。軍備庶務掌理(土佐藩江戸藩邸の会計・軍事係)となり江戸留守並びに御内用役へ。
5)文久2年(1862) 26歳 山内容堂侯の側用人となり、土佐藩江戸藩邸の総裁。武市瑞山の土佐勤王党が容堂の警護に五十人組を結成。退助も上士のみで構成された五十人組を結成。国元の土佐では吉田東洋が土佐勤王党員に暗殺。
6)土佐勤王党・間崎哲馬と交わる。間崎は、土佐藩の田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江の口村に私塾を構え、教え子は中岡慎太郎、吉村虎太郎など。さらに尊皇攘夷派の人物と交わる10月、退助は「時勢之議論に打傾き、頻(すこぶる)に外藩人(他藩の藩士)と出会致し、攘夷論を唱へ候者を信用し、御上(藩主)へも時々言上致候」
7)文久3年(1863) 27歳藩主に従って上洛。容堂は旧吉田派の人を登用し、退助は罷免。

5.中岡慎太郎との交遊、薩土討幕の密約。のち土佐藩を一藩勤王に導く。
1)文久3年(27歳)8月、京都政変後、中岡慎太郎が退助を訪問。互いに討幕を誓う。
9月5日、中岡慎太郎脱藩。(同月21日、武市瑞山ら捕縛。土佐勤王党弾圧さる)
2)退助、復職し、藩の仕置役となる。文久4年/元治元年(1864) 28歳 7月、町奉行となる。8月、藩の大監察に任ぜられ、後藤象二郎とともに容堂侯を補佐し、藩政運営の中核となるが、藩政の方針と対立して意見が容れられず失脚。元治2年、総ての役職を被免。さらに先の在職中、責任を問責され謹慎。
6. 洋式騎兵修行のため江戸へ
同年4月1日、謹慎が解けて、洋式騎兵修行のため江戸へ。閏5月、武市瑞山が切腹を命ぜられ、退助は、江戸で瑞山の悲報に接する。幕臣および他藩の士と交わり世の動静を察す。
7. 薩長同盟成立。
慶應2年(1866) 30歳1月、薩長同盟成立。6月7日、第二次長州征伐が始まる。騎兵修行の命が解かれる。
8. 水戸浪士隠匿事件~薩土武力倒幕密約
慶應3年(1867) 31歳2月、土佐藩邸へ水戸浪士・中村勇吉、相良総三らを匿う。
5月21日、小松帯刀邸で、乾退助、中岡慎太郎、谷干城、西郷隆盛らが討幕挙兵を約する。薩土討幕の密約を締結。土佐藩邸に隠匿の水戸勤皇浪士を薩摩藩に移す。
9.大政奉還についての意見。
同年7月8日、後藤象二郎が山内容堂公へ「大政奉還」の策を進言の時、退助はこの
策を聞いて喜ばず、

「『大政返上』の名は美なるも、畢竟空名(有名虚実)にすぎぬ。今、朝廷が之によって天下に号令せんとするも、実権が伴はなければ、真実、『大政を奉還した』とは云へぬ」

と述べたが、退助の議は入れられず、7月13日、容堂公は大政奉還の建議を認可。
10.土佐藩の軍令改革を行い近代的部隊を創設
脱藩を決意したが、土佐藩は逆に正式に退助を藩の軍令改革の主導者として抜擢。大監察(大目付)、土佐藩軍備総裁。退助は、兵制を改革し、北條流弓隊を廃止して、銃隊を作り武力討幕に備う。慶応3年8月20日、アメリカ留学を命ぜられる(実現せず)。土佐藩歩兵大隊司令を兼任。結局、10月3日、後藤象二郎らの主導により山内容堂公を経て、「大政奉還建白書」が幕閣に提出されてしまう。歩兵大隊司令を解任。10月8日(1867年11月3日)、武力討幕に関する言動を警戒され、土佐藩歩兵大隊司令を解任される。
11.薩長両藩に「討幕の密勅」が下る。
10月13日、薩長両藩に「討幕の密勅」が下る。10月14日、第15代将軍・徳川慶喜が「大政奉還」を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許せらる。10月19日、「大政奉還」が勅許されたことにより、武力討幕を一貫して主張した退助は総ての役職を免ぜられ失脚。さらに中岡慎太郎、坂本龍馬が暗殺され、討幕派は危機をむかえる。
12.王政復古の大号令~戊辰戦争
1)12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が発せられる。かつて土佐藩に隠匿していた浪士が庄内藩と係争。慶應4年/明治元年(32歳)1月3日、鳥羽・伏見の合戦が勃発。薩土討幕の密約に基づき土佐藩は参戦。谷干城ら早馬で京都より国許へ開戦を伝達。
7日、逆賊・徳川慶喜追討の大号令。
2)直ちに失脚を解かれた退助は、8日、迅衝大隊司令に任ぜられ、京都出征を命ぜられる。
13日、迅衝隊600余名を率いて高知を発す。2月9日、官軍東山道先鋒総督府参謀を拝命。
14日、東征の途に就く(先祖・板垣信方320年の命日にあたる)。18日、美濃大垣に至り、「乾」姓を「板垣」に復す。甲州勝沼の戦い。3月5日、甲府城に入り、3月6日、甲州勝沼で、大久保大和(近藤勇)を撃破。江戸へ進軍。板垣への人気が高まり「断金隊」が結成され官軍を助ける。3月18日、江戸に入り、江戸城を無血開城させ、下野に進軍。
3)日光東照宮を兵火から守る。閏4月1日、大鳥圭介らが率いる伝習隊を宇都宮、安塚、今市の各地を転戦しこれを撃破して東北へ。
13.彰義隊による輪王寺宮拉致事件~彰義隊偽勅事件
恭順を拒否して寛永寺を占拠した彰義隊は、5月15日、合戦に負けると輪王寺宮(北白川宮能久親王)を拉致。さらに「朝敵」と呼ばれるのを避けるため、輪王寺宮に即位を強要。6月15日、三種の神器も保持せぬまま即位式を強行。傀儡として「東武皇帝」の帝号と僭称させ、翌6月16日、偽年号「大政」に改元の偽勅を宣して「偽帝」を奉戴した。
14.会津・庄内藩による蝦夷地売却未遂事件
『ドイツ連邦軍事文書館』所蔵文書によれば、会津・庄内藩が「蝦夷地」売却を画策。7月、ビスマルクはこれを認可。「100平方ドイツマイル(5,625平方km)の土地を得るのに30万メキシコ・ドルで充分であろう」と交渉。朝敵勢力は、蝦夷地へ逃れ、「蝦夷共和国」の樹立を宣言。(勝てば官軍という言葉は、皇室の権威を蔑ろにする不敬発言)
16.会津征伐
1)大村益次郎は枝を刈って幹を枯らす作戦を主張。板垣は幹を倒して勝機を逃さずの作戦。
2)会津落城芋の話。身分格差の強い会津藩に土佐藩兵は驚く。会津庶民は鶴ヶ城の落城を高みの見物で、われ関せず。
3)板垣の戦略。近藤を蹴散らした甲陽鎮撫隊との合戦。甲州城に入城する際、乾姓を板垣と復姓し地元の武田尊崇に訴えかけた心理戦術。母成峠を抜き、十六橋(じゅうろっきょう)を急襲して会津軍の度肝を抜き、会津市街戦突入のタイミング。これらは兵学を座学で学んだだけでは体得できず、板垣でなくては成し得なかった作戦の連続。しかし、勘違で切腹した白虎隊は神様のように評価され、日本を近代国家たらしめん為に本当に戦った人々、勇猛果敢に戦った官軍は、貶められた評価。西郷が征韓論争で下野した時、中央政府が最も恐れたのが板垣の動向。
4)天杯を賜う。11月1日、参内、諸隊江戸城西丸において、天皇陛下の御閲兵を受ける。更に藩庁より軍賞として増知六百石、役領知二百石被下置、家老格に被仰付、御感状並に御刀一口被遣之。迅衝隊士も土佐に帰国後、上士格に昇進する栄誉を賜わる。
17.明治維新
1)慶応4年3月14日明治天皇の「五箇条の御誓文」。明治3年(1870) 34歳。高知藩大参事(家老)となる。「孛仏戦争」視察のためヨーロッパへ派遣命令が出る(実現せず)。
2)「四民平均の理」を発表。明治三年(1870)12月

「夫れ人間は天地間活動物の最も貴重なるものにて、特に霊妙の天性を具備し、知識技能を兼有し、所謂万物の霊と称するは固より士農工商の隔てもなく、貴賎上下の階級に由るにあらざるなり。然るに文武の業は自ずから士の常職となりて、平生は廟堂に坐して政権を持し、一旦緩急あれば兵を執り乱を揆する等独り士族の責のみに委し、国家の興亡安危に至っては平民かつて与(あずか)り知らず、坐視傍観の勢となり行きしは、全く中古封建制度の弊にして、貴重霊物の責を私し、賤民をして愈々賤陋習ならしめし所以なり。方今王政一新、宇内の変革に基き、封建の旧を変じ郡県の政体を正さんとするに当て、当藩今日大改革の令を発するは、固より朝旨を遵奉し王政の一端を掲起せんと欲すればなり。故に主として士族文武常職の責を広く民庶に推亘し、人間は階級によらず貴重の霊物なるを知らしめ、各自に知識技能を奨励し、人々をして自主自由の権を与え、悉皆(しっかい)其志願を遂げしむるを庶幾するのみ」

また「議事院を開くの議」には

「凡そ政府は民の為めに設くる所にして、政府の為めに民を役するにあらざるなり。唯人民自主自由の権を有し各々其所を得、其業を遂ぐるは政府の保護と裁判とにあるのみ。然るに其保護裁判の宜しきを得んとすれば、官民一致、上下合議の旨を執るにあらざれば、壅蔽阻隔(ようへいそかく)してややもすれば争乱を生じ、国家の敗覆を致すもの鮮なからず。是れ政府に於いて議事院を建て、衆議を採り公論に基づく所以なり」

18.近衛連隊(国軍)を創設 – 薩・長・土の三藩兵を朝廷に献ず
明治4年(1871) 35歳。特に土佐藩は、歩兵第二大隊、騎兵二小隊、砲兵二大隊を献じた。
19. 廃藩置県
7月14日、西郷、大久保、木戸と板垣が協議し、廃藩置県の制が発せられる。
20.その後
明治6年(37歳)10月、征韓論破裂。23日、西郷隆盛、参議を辞す。板垣らもこれに続き
自由民権運動、国会開設、大日本国憲法制定、近代国家へ。
21.板垣退助と大江卓が交わした会話。人種差別を撤廃し白人社会専制ではなくアジア人が
共生できる社会を作る。そのためには日本が率先して盟主とならねばならない。
22.大正8年(83歳)7月16日薨去。従一位に昇叙、特に陛下より誄詞を御下賜あらせらる。

誄詞(るいし)
軍に東征に従ひ、謀に戎幕に参し、大政の維新に際会して立憲の鴻謨(こうぼ)に賛襄(さんじょう)し、運籌(うんちゅう)機に合し献献(こんこん)時に應ず。精誠(せいせい)公に奉(ほう)し、出處渝(かは)ること無し。奄長(えんちょう)逝(ゆく)を聞く。曷(いずく)んぞ軫痛(しんつう)に勝(た)へむ。茲(ここ)に侍臣(じしん)を遣はし賻(ふ)を齎(もた)らして以て弔せしむ。
大正八年七月十八日 御名御璽

孫・板垣守正が退助の遺志を継いで爵位返上。力士16名が棺を担いだ。
21.統括
22.質疑応答


板垣退助が日本で初めて作った政治政党が【愛国公党】。それが【自由党】(※現在の自由民主党の原点)になりますが、解党、結党を経て板垣は再び【愛国公党】を結成します。ここ大阪では【愛国社】が結成され、「国会開設の請願」を行うにあたって全国会議を行い、ここ「太融寺」で【愛国社】を【国会期成同盟】という名称に変更して、請願書を作成しました。この場所は、板垣精神にとっての縁が極めて深い場所ではないでしょうか。次回の板垣勉強会の会場も、こちら「太融寺」本坊で行うことを予定しております。


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投稿日:2017/06/11

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