板垣特集【君辱めらるれば臣死す】(令和4年2月6日号)

令和4年は板垣退助の岐阜遭難【140周年】にあたる年です。

『岐阜新聞』は『自由と刃』と題して板垣特集を毎月第1日曜版に連載されることになり、第2弾も第2面に大きく特集記事が載った。


新聞特集は多くの研究者に取材して構成されているので、詳細は紙面をご購読頂きたいが、紙面に漏れたことを何点か補足。

第一に、西南戦争に関して加わらなかった理由は、尊皇の板垣として「賊軍」となる事を避け【官軍に抗する事を義としなかった】為で、手段の為なら官軍に抗する事も是とした西郷とは大いに異なる。
不平士族の叛乱があった時に、立志社の人間で呼応する動きはあったが、板垣は諫めている。
そればかりか、征韓論争で下野した時点で、こうなる事を予見して西郷を諫めている。
また、明治維新以降の板垣の行動、自由民権に至る道筋として「薩長の専制を嫌って」と説明される事が多いが、そもそも薩摩の雄が西郷隆盛であり、西郷と共に征韓論で下野したのだから「薩長の専制」とすると時系列的にも矛盾する解説であろう。(板垣自身は「薩長専制」では無く「有司専制」と記して、寧ろ岩倉ら公家の専制を批判している。またこれが後の「華族制度批判」、「爵位返上」、「一代華族論」等の主張に結びついていく)

今回の記事では、明治維新後の薩長専制→明治7年の「民撰議院設立建白書」→明治10年の「西南戦争」→明治6年の「征韓論争」となっている点が、時系列的に分かりにくいかもしれない。


【君辱めらるれば臣死す】という春秋時代の越の大臣・范蠡の言葉がある。

『主君が恥辱を受けた時には、臣下は命を投げ出しても、主君の恥辱をすすがなければならないものだ』と言う意味である(『国語-越語・下』)。

これは、越の国王・勾践は、呉との戦いに敗れて捕虜となったがのち釈放されて国に帰り、力を蓄え、遂には呉を滅ぼすに至った。呉を滅ぼすまでに越の国力を回復させるには、范蠡の功績が多大であったにも関わらず、范蠡は「本来ならば【君辱めらるれば臣死す】という精神に徹するべきであった。王が捕虜となったときに、私は一死を報いるべきであったが、今日まで生き永らえてしまった」と自戒し、王の許から姿を消してしまったと言う故事による。


明治の初め、書契事件、五榜の掲示などを以て、かの半島国家は皇室を蔑み、日本民族を侮蔑した。

『征韓論争』とは正にこのような精神で、朝鮮半島から皇室が蔑まれたなら、西郷、板垣らは毅然として征伐すべきであると考えた。
しかし、それを時期尚早と政府に阻止された。いや政府と言うよりも、岩倉個人に阻止された。
参議の閣議で決定したものを、天皇陛下へ奏上する段階で、虚偽の上奏をされ廃案となったのである。


これが明治六年の政変に至る経緯であり、愛国公党結成の動機である。

武力で政府に抗すれば「賊軍」となるので、板垣は【愛国】を名乗って言論で政府に抗したのである。

これが自由民権運動へ至る肝であり、愛国公党ならびに自由党の起源であり、現在の自由民主党へ政治的系譜が受け継がれていく。


板垣退助という人物を考える時、「尊皇」と「愛国」という軸で彼を見れば、一分の狂いも無く、首尾一貫して行動していることが分かるだろう。

板垣にとって「自由」という言葉は手段であって、目的ではない。それらは板垣自身の遺著『立國の大本』を読めばよく分かる。

この点が抜け落ちると、板垣退助が何のために何をしようとしたのか、理解が出来ないのではないかと考え、蛇足ながら解説を補足する次第。(※詳細は新聞をご講読下さい)

次回は来月の第1日曜版紙面に載ります。


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投稿日:2022/02/06

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