板垣退助第104回忌 -板垣退助の生誕地にて- (令和4年7月16日)


令和4年(2022)は、憲政の功労者である板垣退助の岐阜遭難事件より140年の節目の年。

岐阜では『岐阜新聞』さまが、本年1月より総力をあげて特集記事を組んで下さっております。7月16日の板垣の命日には、高知・板垣山の板垣(乾)家歴代墓所、龍乗院に移築された板垣家の門、高野寺での法要を取材される予定で、我々が記者さまをご案内する段取りを整えておりました。

その矢先、折しも、8日前の7月8日、安倍元首相が参議院選挙の演説中に、背後から銃撃され殉国されるという驚くべき事件。安倍元首相が板垣退助の位牌に寄せられた揮毫が世間の注目を集め、地元の『高知新聞』さまも急遽取材にお越し下さいました。


JR高知駅南側に12時に待ち合わせ、記者さま、谷先生、理事長と私たちは、仏花を用意して、いざ板垣山へ。ところが、向かう途中、俄かに雨が激しくなりました。板垣山の新駐車場に車が止まっておりました。高知新聞の記者さまでした。少し小雨になるのを待って板垣山へ。理事長が両記者へ板垣山の由来など説明。谷先生からも詳しくご説明がありました。


般若心経を唱えて、お参りのあと、記者さまの取材で写真撮影。板垣山から下山路で龍乗院に寄って山門をご説明。道中の車内も時間を有意義に使って取材にお応えしました。


その後、法要開始までの時間に、高知新聞の記者さまの取材に応じました。

法要へは例年通り、桑名先生、久保先生もご出席されました。総勢30名程。桑名先生のご先祖の胎中楠右衛門さまは、昭和12年、この高野寺に「板垣会館」が建設された時、ご尽力賜った方で、その時からのご縁は今に続いております。(この日に合わせて、安倍元首相追悼版、板垣退助遺著『立國の大本』現代語訳を増刷。高知・岐阜およびホームページからご連絡頂きました方々にお配りいたしました)


新聞報道では・・・


(『中日新聞』令和4年7月16日附朝刊より)

【自由は死せず・4年前の筆】
安倍元首相・板垣退助の位牌に。
参院選の遊説先で銃撃を受けて死亡した安倍晋三元首相は、明治時代の自由民権運動の指導者、板垣退助(1837-1919)の位牌(いはい)に「板垣死すとも自由は死せず」と揮毫(きごう)していた。7月16日は板垣の命日。今年は板垣が岐阜で暴漢に襲われ、その言葉を発して140年にあたる。板垣退助の玄孫は本紙の取材に「政治が命懸けだった時代が、今の世にもあっていいはずがない」と語気を強めた。取材に応じたのは、一般社団法人板垣退助先生顕彰会(大阪市)理事長で、板垣退助の玄孫に当たる髙岡功太郎さん(48)。7月17日には、岐阜事件があった現場で板垣退助と安倍元首相を偲ぶ式典が営まれる予定で、髙岡


さんも参列する。板垣退助の東京の菩提(ぼだい)寺に位牌はなく、高知の板垣退助生誕地に建つ寺にも白木の仮のものがあるのみだった。百回忌にあたる2018年、新たに位牌を作ることになり、政党政治を志した板垣の言葉を刻もうと、自由民主党の総裁だった安倍元首相に揮毫を依頼。その揮毫を元に位牌に彫り、東京と高知市の菩提寺に奉納した。(以下略)



(『岐阜新聞』令和4年7月16日附朝刊より)

【安倍氏が刻んだ「自由は死せず」】
板垣退助の位牌・4年前に揮毫。高知・東京の寺に奉納・子孫「時代を経ても精神不滅」と語る。
「板垣死すとも自由は死せず 安倍晋三」。高知市の板垣退助生誕地に建つ寺に安置された板垣の位牌(いはい)には、安倍元首相が揮毫(きごう)した「岐阜発」のあの名言が刻まれている。平成30年(2018)の板垣百回忌に合わせて板垣を顕彰する一般社団法人板垣退助先生顕彰会が位牌を新調した時に、安倍元首相から贈られた文字を彫り込んだ。子孫らは政治家襲撃に絡む奇妙な巡り合わせに、悲痛な思いを募らせている。7月16日は板垣の命日。「自由は死せず」明治15年(1882)、自由民権運動を推進する板垣が、遊説先の岐阜で暴漢に襲われ、けがを負った際に発した



(『岐阜新聞』令和4年7月16日 第1面より)

言葉。今年は事件から140年の節目に当たるが、参院選さなかの今月8日、安倍元首相が街頭演説中に銃撃され死去した。板垣退助の玄孫で板垣顕彰会理事長の髙岡功太郎さんは「こんなことがあっていいのか。今も昔も政治家は命懸け。背景や動機は全く違うかもしれないが、二つの事件を重ねてしまう部分もある」と語る。位牌を管理する高野寺(高知市)の島田定信名誉住職も「何か因縁めいたものを感じてしまう」と言葉をしぼり出す。


板垣の生家に立つ寺では7月16日にNPO法人板垣会(高知市)によって命日の法要が催される。

安倍元首相の揮毫した位牌は二つある。板垣顕彰会によると、高知の高野寺は昭和20年7月4日の高知空襲で全焼し、戦後に作られた白木の仮位牌しかなかった。東京の菩提寺・高源院(本房:世田谷区・墓所:品川区にある飛び地)にも位牌がなかったため、百回忌に合わせ、浄財を募って二つを作成。両方の菩提寺に奉納した。

背面には板垣が岐阜で残した名言が刻まれている。高岡さんは「刺されても日本のためにと志を貫いた板垣。時代を経てもその精神は不滅であってほしいとの思いを込めた」と語る。安倍元首相に依頼した経緯については「ただ字を彫るのではなく、遺志を継ぐ人の文字でなければ。板垣が創設した(明治の)自由党の流れをくむ自民党の当時の総裁にお願いした」と説明。関係者を通じて届けられた原本は、大きな條幅に毛筆で書かれたものだという。

今年で岐阜事件から140年。7月17日には、事件現場となった岐阜公園(岐阜市大宮町)で「記念祭」が催される。板垣退助の子孫を代表して髙岡さんは7月16日の高知での法要と岐阜の記念祭の両方に出席予定で、「遠い昔の出来事で済ましてはいけない。もう政治家が暴力で襲われるようなことがない社会に」と願う。

【板垣退助岐阜遭難事件】明治15年(1882)4月6日、自由党総理(党首)として自由民権運動を推進する板垣が、金華山の麓の中教院(現在の岐阜公園内)での演説を終えて会場を出たところ、相原尚褧(あいはら・なおふみ)という男に短刀で刺された。板垣は胸や顔、手に傷を負ったが命に別条はなく、その後も日本の政治体制構築に尽力した。



(『髙知新聞』令和4年7月17日附朝刊より)

【板垣退助を偲び法要】命日に子孫ら参列。
自由民権運動を指導した板垣退助(1837-1919)の命日に当たる7月16日、高知市本町2丁目の退助の生誕地にある高野寺で法要が営まれた。親族ら約10人が参列して思いをはせた。法要は県内外の有志でつくるNPO法人板垣会(旧財団法人板垣会)が主催。一般社団法人板垣退助先生顕彰会(大阪市)理事長で、板垣退助の玄孫・髙岡功太郎さん(48)


らも参列した。板垣退助は幕末、討幕活動に奔走。薩土密約を結び、戊辰戦争を戦った。明治維新後、参議となったが征韓論争で敗れ、新政府から下野した。議会制度の樹立を目指して民選議院設立を建白するが容れられず、高知に帰って立志社を設立。のち自由党を結成し議会設立と憲法制定などに尽力した。明治15年(1882)、岐阜で演説直後に暴漢に襲われた時「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を発した。板垣顕彰会が4年前の板垣百回忌を期して新調した位牌には、当時自由民主党総裁であった安倍晋三元首相が揮毫した「板垣死すとも自由は死せず」の文言が彫られている。
読経が響く中、参列者が位牌前で代わる代わる焼香して手を合せた。今年は板垣が岐阜で暴漢に襲われてから140年。揮毫を寄せた安倍元首相が参院選の応援演説中に凶弾に倒れたことを受け、髙岡さんは「憲法改正の議論を起こそうとしていた安倍元首相の姿が、国会を創ろうと全国遊説して国民運動を起こそうとしていた板垣と重なる」と心を痛めた。板垣会の谷是副会長(83)は、「板垣は法が人間を守る社会を創ろうと、自分の総てを犠牲にした人。命を賭して政治を守ろうとした人が土佐にもいたことを広く伝えていきたい」と話していた。(蒲原明佳)


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投稿日:2022/07/16

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