『維新史』第4巻の問題点(令和5年4月28日)

本日は、京都霊山護國神社の春季例大祭のあと、【薩土討幕の密約】が実際に結ばれた「鞍馬口」の小松帯刀寓居を巡ります。


我々が祇園に『薩土討幕之密約紀念碑』を建立したのが、令和元年・明治維新151年の年。
この『薩土討幕の密約』が結ばれた場所は、薩長同盟が結ばれた場所と同じです。この場所には我々が建碑を行う2年前の平成29年に『薩長同盟所縁之地』の石碑が建てられました。

勿論、その石碑の横に『薩土討幕の密約』の石碑を建ててはどうかという案が無かった訳ではありませんが、我々はその密約の前段階として、中岡



慎太郎が尽力して、安芸広島藩の船越衛(洋之助)らを交えて、武力討幕の戦略会議を開いた場所(祇園)を選び、『薩土討幕之密約紀念碑』として建立することになりました。


「之地」ではなく「紀念碑」としたのは、「結ばれた場所」ではなくその「所縁」を顕彰する意味を持たせたためです。「記念碑」ではなく「紀念碑」としたのは、漢語的に正しい表記にこだわった為で、「薩土密約」ではなく「薩土討幕之密約」としたのは「薩土盟約」と勘違いされるのを防ぐためです。石碑以外に詳しい案内文の入った高札と英訳文も用意しましたが、祇園の立地的に「高札と英訳文」はNGとなりましたので、碑の片面にアルミプレート板を埋め込むという苦肉の策と涙ぐましい努力を重ねて建立したのが祇園の石碑になります。


さて【薩土討幕の密約】が実際に結ばれた小松帯刀寓居の現在の場所は京都市営地下鉄の「鞍馬口」駅を出てすぐの場所。

現地に案内板がありますが「薩長同盟」に関することばかりで、これでは、その同じ場所で「薩土密約」が結ばれたと、どれだけの人が知ってくれるだろうか少々不安になる内容でした。まあ、建てた団体の方が「薩長同盟」しか眼中にないと、こう言う内容とならざるを得ないのかもしれません。



恣意的な記述のある『維新史』第4巻


668-669頁に「薩土盟約」が登場(慶応3年6月)


これらの問題の元を辿ると戦前に編纂された『維新史』などに行き着きます。戦前に東京帝国大学の編纂した『維新史』(第4巻)の中にも、「薩土盟約」と「薩土討幕の密約」は出てきますが、時系列を無視して「薩土盟約」を先に記述し、その後、前後関係をボヤかして「薩土討幕の密約」を記載しています。…知らぬ人が読めば、「薩土盟約」の後に「薩土密約」が結ばれたかのように読める(実際は逆)。しかも「薩土密約」は、西郷と板垣と個人的な約束の様な扱い(この解釈を踏襲している人が未だにいる)。実際には、翌日(5月22日)に退助は容堂に面会して了解を貰い、容堂は退助に土佐藩の軍制改革を指示。それに基づきアルミニー銃300挺を藩費で購入させている。また薩摩藩も5月25日、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を「武力討幕」で統一することを確認しています。



670-671頁も「薩土盟約」について記述


672-673頁も「薩土盟約」について記述


【『維新史』第4巻の問題点】
●「薩土盟約」と「薩土密約」の時系列が逆。
●「薩土密約」は、西郷と板垣と個人的な約束の様に扱い、翌日に板垣が容堂に報告し了承を得た件が省略されている。
●学術的には存在しない(フィクションである)ことが確定している「船中八策」が史実かのように扱われ、それに基づいて話が進んでしまっている。



714頁に漸く「薩土密約」が登場(慶応3年5月)


716頁には(フィクションの)「船中八策」が登場


668-673頁まで慶応3年6月の「薩土盟約」について記述しておきながら、713頁に「四侯会議」(慶応3年5月)の話に戻り、赤枠で囲んだ「薩土密約」の話となる。中岡慎太郎から西郷隆盛に宛てた手紙と、中岡慎太郎の日記『行行筆記』があるので日付は誤魔化しきれず「5月21日」と正確にあるが、その後に続く文章で、土佐に帰ったとあり、肝心の5月22日に容堂に報告し了承を得た件が省略されている。さらに「斯くの如く…」と文章を隔てて容堂のことを記載し、「同月27日(容堂が)退京するに至った」と書いており、退助と容堂が別々に行動したかのように錯覚させるような記述がされているが、史実は、退助は容堂につき従って一緒に土佐への帰路についているのである。そして、もぬけのからとなった京都に後藤象二郎と龍馬がやって来るのである。しかし、それでは「薩土盟約」のインパクトに欠けると思った編者が、勝手に時系列を入れ替えて、記載しているのである。さらに、716頁には(フィクションの)「船中八策」が登場し、さも、それが史実かのように記載されてしまっている。


そして、この歴史観は、司馬遼太郎などに引き継がれ、小説を通じて現在の幕末の歴史認識に翳を落としてしまっていることは否めない事実です。


『維新史』第4巻はそれに先行する、瑞山会の編纂による『維新土佐勤王史』の記載の影響を如実に受けており、同書は武市瑞山を顕彰する目的で書かれたものであるが為に、瑞山を贔屓目に描くことは許されるとしても、「公平忠実に編纂した」と謳いながら、時系列を無視し、史実を曲げてこの部分が孫引きのように記載されているのは、如何に解釈したら良いのでしょうか。当然、『維新史』の編纂者たちは、「薩土盟約」と「薩土密約」の日付を知っていたはずですが、知っていたがゆえに、時系列を逆に描くのに邪魔となった「薩土密約」を容堂に報告した日付を(意図的に)省いたとしか考えられません。


もし「薩土密約」が西郷と板垣の個人的な約束に過ぎなったなら、藩費から銃器を購入した経緯、容堂が板垣を軍制のトップに据えたこと。慶應4年1月4日に伏見合戦で土佐藩兵が参戦した経緯などをどう説明するのでしょうか。また、「薩土密約」が左行秀の密告によって寺村左膳らに露顕し、寺村は板垣の失脚を狙って、容堂に対して板垣の切腹を迫ったこと。土佐勤王党の清岡公張らが板垣の身を案じて、脱藩を促すも、板垣は「容堂公はご存知である」と堂々と接し、容堂公もまた「余は知っておった」と重臣に告げ、切腹を回避した事件などをどう説明するのでしょう。歴史小説にどっぷりと浸かるのは駄目だとは申しませんが、史実とフィクションを混同し、フィクションが史実を追いやる昨今の状況は如何なものかと感じざるを得ません。


そして、戊辰戦争の前哨戦となった、庄内藩による江戸薩摩藩邸焼き討ち事件、その発端をつくった水戸の勤皇派浪士たちは、板垣が築地の藩邸に匿っていた浪士であり、「薩土密約」によって、慶応3年11月に、薩摩藩に移管された結果、幕府を挑発し開戦を誘発した功績を消し去ろうとしています。


これからも、我々はまさにに歴史の転換点となった「薩土密約」に関して、論述して参らねばと考えております。(事務局)


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投稿日:2023/04/28

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