『先見経済』令和8年5月号(令和8年5月1日)

清話会で髙岡理事長が令和8年3月24日に行った講演【板垣退助の勤皇精神】が、『先見経済』令和8年5月号に掲載されました。(※講演内容のPDF版はこちらより)


髙岡理事長による清話会大阪での講演会。【板垣退助の勤皇精神】「-国会を創った男・板垣退助に学ぶ戦略-」と題して行った講演。

ご好評につき、『先見経済』令和8年5月号に9頁にわたって、詳細に講演録が載りました。歴史雑誌でも、「髙岡さんは板垣退助についてもっと知って欲しいと講演でかたられました」ぐらいのフワッっとした内容で終わってしまい、肝心の何を言いたかったのかを具体的に掲載してもらえる機会が


ほとんどありませんでした。テレビ局などで取材で取り上げられるのは、ほとんどが一言か二言。しかも、テレビ局が云わせたい言葉を無理に言わせてその部分だけ流したりとか、そういうのが大半でした。これでは百年経っても、我々の思いは伝わらないでしょう。そういう意味では、板垣退助の身内からの発言は貴重。かつ重要ですね。(※実際の講演内容の全文はこちらへ)



『先見経済』令和8年5月号(24-25頁)


『先見経済』令和8年5月号(26-27頁)


板垣退助の勤皇精神 -国会を創った男の成し遂げた功績とは-
板垣退助の玄孫が語る「自由」と日本
板垣退助玄孫・髙岡功太郎
(一般社団法人板垣退助先生顕彰会 理事長)
清話会セミナー【大阪】 令和八年三月二十四日(火)


■板垣の玄孫として語る決意
皆さま、こんにちは。ただいまご紹介にあずかりました、一般社団法人板垣退助先生顕彰会で理事長を務めております、髙岡功太郎と申します。

私は板垣退助の玄孫(やしゃご)にあたります。こうして皆さまの前でお話しさせていただくことになりましたが、かつては「先祖の批評は歴史の専門家にお任せするもので、身内の者が自ら語るべきではない」という風潮がございました。私の祖父の代くらいまでは、そういう意識がございましたので身内が板垣自身のことを語る機会というのは、あまりなかったように思います。しかし、明治維新からちょうど150年・板垣の百回忌を迎える頃になりますと時代は変わりまして、「髙岡さん、ぜひ何かお話してもらえませんか?」というお声をいただくようになってまいりました。

ちなみに、なぜ私が「板垣」ではなく「髙岡」なのかと申しますと、私にとって板垣退助は母方の先祖にあたるからです。もう少し詳しく申し上げれば、板垣退助の次男の長男の長女の長男が私ということになります。名字は違えど、板垣の血を引く一人として、その遺志を継ぐ活動をしております。

今から50年以上前、明治維新100年(昭和43年)の年は板垣の50回忌に当たるため、当時の佐藤栄作総理大臣が名誉総裁となって「板垣退助先生顕彰会」を設立されました。「板垣が創設した自由党の直系の政治政党こそが自由民主党である」という強い思いから、佐藤先生は中央で板垣の顕彰活動を主導されたのです。東京品川の板垣の墓前には、佐藤先生の揮毫(きごう)による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑があります。これはその時に建立されたもので板垣の故郷である高知から運んだ石に刻まれております。品川神社の奥にございますので、お越しの際は、ぜひお墓とともにご覧いただければと思います。さて、それから50年を経て、平成30年に迎えたのが板垣の百回忌でした。私たちは佐藤栄作先生の遺志を引き継ぎ、会を一般社団法人化して私が理事長に就任いたしました。この節目に何を行うべきかと考え、高知、岐阜、そして東京の3ヶ所で日にちをずらして慰霊祭を執り行いました。



板垣退助五十回忌のとき(中央が理事長の祖父)


佐藤栄作先生の揮毫による石碑(五十回忌建立)


■安倍晋三総理と板垣退助を結ぶ「お位牌」の物語
百回忌に際して、私たちは数々の記念事業を行いました。その一つが「板垣退助のお位牌の再調」です。

実は、東京の菩提寺にあったお位牌は関東大震災で焼失し、高知の菩提寺にあったものも昭和20年の高知大空襲で焼けてしまっておりました。そのためそれ以降は白木の仮のお位牌しかなく、百回忌を迎えるにあたって、きちんとしたお位牌を新調し、東京と高知の両方の菩提寺に奉納しようと考えたのです。

せっかく新しく作るのなら、「板垣は死して百年経ったがその精神は滅びない」という新たな願いを込めてお位牌の裏面にあの有名な「板垣死すとも自由は死せず」の文言を彫り込もうということになりました。

では誰がその文字を書くのか?50年前には佐藤栄作先生に揮毫していただいた。ならば、現代においては当時の安倍晋三総理大臣にお願いしようではないかと。そう決意して、趣意書や50年前の資料を手に国会の第一議員会館までお願いにあがりました。

その結果、ご多忙にも関わらず安倍総理に快くお引き受けいただき、素晴らしい揮毫を賜ることができました。本日持参いたしましたのは、その時に安倍総理が書いてくださった文字を、参列者の皆さまにお渡しできるよう色紙の形に直したものです。

東京で斎行した慰霊祭では、板垣の親族・子孫が参集し、退助四女千代子の嫁家の旧浅野財閥・浅野総一郎のご子孫として浅野造史さま、浅野一(太平洋セメント販売株式会社代表取締役社長)さま、「五箇条の御誓文」を起草された福岡孝弟さまの曾孫・福岡孝昭(元立正大学教授)さま、南北朝時代の英雄・楠木正成公のご子孫・楠正至さま、旧幕臣のご子孫、防衛省、宮内庁、自民党関係の方々、歴史家の先生など、ゆかりある多くの皆さまがお越しくださいました。

それから4年後、安倍総理が演説中に背後から銃撃され、暗殺されるという衝撃的な事件が起きました。民意を問うべき選挙という場において、暴力で言論を遮るかの行為に対し、許されざる暴挙として、この事件を重く受け止めております。

私たち板垣会は、翌年より大阪護国神社で安倍先生の慰霊祭を斎行し、昨年は安倍昭恵夫人をお招きして「憲政殉難之碑」という石碑を建立いたしました。碑文は昭恵夫人の揮毫によるものです。そこには、安倍先生が板垣百回忌の時に書いてくださった「板垣死すとも自由は死せず」の揮毫も刻まれています。私が今こうして活動しておりますのは、単に過去の歴史上の人物の事績を勉強するためではありません。歴史は連綿と今のこの瞬間にもつながっています。その精神を実社会に活かしていくことこそが、本当の歴史顕彰の活動だと考えているからです。



『先見経済』令和8年5月号(28-29頁)


『先見経済』令和8年5月号(30-31頁)


■「五箇条の御誓文」と明治天皇の深い想い
さて、ここからは少し学術的な内容にも触れていきたいと思います。お手元の資料の第一ページをご覧ください。そこには「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という有名な言葉がございます。

これは、五箇条の御誓文の第一条で、同時に板垣退助が生涯をかけて実践しようとした理想そのものです。

なぜ板垣が明治維新以降、自由民権運動に身を投じ、国会開設を目指したのか。その答えはすべてこの五箇条に集約されています。私は普遍的価値を持つ名文だと考えておりますが、中には「御誓文は臣下の者が作った原稿をもとに、明治天皇が皇祖皇宗の神々にお誓いになったもの」として過少評価される方がおられます。

そこで重要となるのが「五箇条の御誓文」の成り立ちです。その「臣下の者が作った」という部分を誤解のないように解説しますと、皇祖皇宗の神々にお誓いあらせられた慶応4年3月14日、明治天皇は同時に「億兆安撫国威宣揚の御宸翰(おくちょうあんぶこくいせんようのごしんかん)」という文書を発せられました。

それは「朕(ちん)幼弱(ようじゃく)を以てにわかに大統を紹ぎ……朝夕恐懼に堪えざるなり」という言葉から始まります。「億兆」とは我々国民のことです。そこには「自分のような若く未熟な者が、突如として皇位を継承し、列強諸国とどの様に向き合っていくべきかを日々思い悩んでいる」という、明治天皇の切実なまでの本音が綴られているのです。

さらに驚くべきは、「天下億兆一人も其所を得ざる時は、皆朕が罪なれば」という一節です。「国民が一人でもその真意を理解せず恩恵に与らない人がいれば、それはすべて私の罪である」とあります。「朕が罪」いうこの言葉は、到底臣下の者が代理で原稿として記して差し出せるような内容ではありません。よって明治天皇御自ら発せられた御宸襟に他ならない証左であります。例えるならばこれはまさに、幕末・明治における「玉音放送」とも言うべき、天皇陛下の真のお言葉を記録した第一級の史料で、その御宸翰の要点を五箇条にまとめたものこそが、「戊辰の皇誓(五箇条の御誓文)」なのであります。

板垣はこの陛下の想いを深く受け止め、それを政治の場で実現しようとした。それこそが自由民権運動の本質なのです。


■板垣退助の「自由」とは 愛国心と義務の伴う自由
皆さまが「板垣退助」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、やはり「板垣死すとも自由は死せず」という言葉でしょうか。しかし、実はこの言葉のイメージこそが、同時に板垣という人物を最も誤解させている原因なのでもあります。

よくある勘違いは、白い髭の老人が刺され、最期の瞬間に発した言葉…というものです。しかし、実際には板垣はこの事件で亡くなっておりませんし、この言葉の背後にある「自由」の意味も、現代の私たちが使う「自由」とは同じものを指しておりません。(さらにいえば、刺された時は老人でもなく、髭も生やしていません)

また歴史家の先生の中には、板垣を「実に難解な人物だ」と評する人もいます。高らかに「自由」を語りながら同時期に軍隊を作り、徴兵制度に携わっているのは矛盾ではないか、という批判です。

しかし、私に言わせれば、全く矛盾もしていませんし板垣ほど分かりやすい人間はいません。なぜなら彼の軸は生涯一度もブレたことがありません。

その軸とは「勤皇(きんのう)」です。

では板垣にとって自由とは何か。板垣にとって「自由」とは目的ではなく「手段」でありました。さらにいえば、彼は自由のために自由を叫んだのではありません。板垣は「命を懸けて国家を守る義務」を国民に課す代わりに「愛国心を持って、天下国家のことを議論する自由」、すなわち「言論の自由」の重要性と説いたのであります。

ですから、愛国心を持たずに、ただ勝手気ままに振る舞うことは、板垣に言わせれば「自由」でも何でもありません。板垣が最初に組織した政党の名は「愛国公党」であり、のち「自由党」を作りますがまた「愛国社」を創ったりそれを再び「自由党」にしたりと、板垣の中で「自由」と「愛国」という言葉が繰り返し登場しますが、その軸となるのは少年時代から生涯にわたってブレなかった勤皇精神なのです。

昨日のニュースで、国旗毀損罪の制定に対しての議論がありました。その中で国旗を損壊する行為に罰則を設けないという議論がありました。理由は「表現の自由に抵触するのでは」という意見があると聞き、私は大変驚きました。板垣の精神からすれば、あり得ない話です。「国旗を損壊する自由」など、板垣が認めるはずがありません。

板垣が言う「自由」とは「自分勝手な自由」でも「空想的な概念」ではなく、国防がしっかりと担保された平和国家の中で、国民がその国をどう良くしてゆくべきかを自由に語り合う自由のことです。

そのためにはまず近代的な軍隊を組織して国家の安定を図る。そして国民も幾分かの犠牲を負う義務が生ずる。その上で、国家が国民に過剰な負担を課してもいけないし、国民が自分たちの権利を過剰に主張し、勝手気ままになりすぎてもいけない。

その「絶妙なバランス」こそが、国家を駸々と発展させることが出来るのだと説いたのです。


■天体の運行に例えた国家観 岐阜遭難事件の真実
明治15年(1882)、板垣が岐阜で刺された「岐阜遭難事件」についてもお話ししておきましょう。この時、板垣がどのような演説をした直後に刺されたのかをご存じの方は少ないかも知れません。板垣は何とその演説で「天体の運行」についての話をしているのです。

「空を見上げれば、恒星の周りを惑星が回っている。そこには引力が働いており、そのバランスが保たれているからこそ、星は運行し続けることができるのだ」。

板垣はこれを国家と国民の関係に例えました。

「国家が国民を締め付ける力(引力)が強すぎると、星は燃え尽きてしまう。反対に国民が勝手気ままに飛び出していく遠心力が強すぎると、星は遠く離れ運行は止まってしまう。そのちょうどいいバランスこそが、国家を駸々と発展させるのだ」として、宇宙の法則を説き、今聞いても斬新ともいえる演説を行いました。会場は盛況で万雷の拍手となりましたが、反対派にとってはその板垣の圧倒的なカリスマ性に脅威を感じ、演説を終えて会場を出た瞬間、板垣は暴漢に刺されたのです。

このように板垣が説いた「自由」とは「義務」と表裏一体となったものでした。これは私が勝手に解釈してお話しているのではなく、板垣の遺著『立国の大本(りっこくのたいほん)』の中で板垣自身が述べている内容であります。

では板垣退助という男がどのような人物であったか、いくつかの象徴的な家訓をご紹介しましょう。板垣家(あるいはその前身の乾家)には、こんな言葉が伝わっています。

「畳の上で死するを恥とせよ」。これは男子たるもの、安穏と家で最期を迎えるのではなく、天下国家のために尽くし、路傍で倒れるくらいでなければならない。「出る杭は打たれるが、打ちようのない大きい杭は打たれない」、「常在戦場」等々です。

その峻烈な覚悟こそが、板垣退助という人間の根底に流れていたものなのです。


■板垣流・後世への格言と「江戸時代のサムライ」としての実像
さて、板垣の子孫ということで活動しておりますと、よく「髙岡さん、いつ選挙に出るんですか?」なんて冗談まじりに声をかけられることがあります。まあ、私はそういう器ではございませんので、とお断りしておりますが(笑)。

実は板垣退助自身も、身内に対していくつかの格言を残しておりまして、一つは、「『選挙に出たらどうだ』と勧めてくる人物は信用するな」というものです。この言葉のミソは「選挙に出るな」とは言っていないことです。

自分の才覚知力を発揮して決断するのなら良いが「板垣退助の子孫だから」という看板だけで当選できるような生易しい世界ではない。要は先祖の名に胡坐をかいたような生き方をするなという意味と、お世辞を言って近づいてくる人物の本性をしっかりと見極めよという意味が込められています。なかなか手厳しいですが、真理を突いていますね。

また「大業を成さんとする時は、必ず小さな邪魔が入る」というものもあります。大きな事業を成し遂げようとする時には、必ず小さな邪魔が入るものだ。だから小さな邪魔が入ったとしても「ああ、これで大業が成せるんだな」と喜んで、臆することなく突き進め、と。板垣自身、艱難辛苦を労ともせず、戦略を立てて突き進んだ人間であったことが、こうした言葉からも伝わってくるのではないでしょうか。

板垣退助というと、どうしても「明治大正の政治家」というイメージが世間では強いようですが、実は第15代将軍・徳川慶喜公と全く同じ年に生まれています。つまり、根本思想は明治の人というより「江戸時代のサムライ」なんです。

幕末といえばアジア諸国が欧米列強の野心に翻弄され、次々と植民地化されていた混沌とした時代でした。その国家危急の中で、いかにして日本が自立を保全するか。サムライたちが命懸けで考え、作り上げた骨格の中に今の日本があります。そして、現在の日本が置かれている状況も、中国、ロシア、アメリカ等の大国の利害に阻まれた混沌の中にあり、当時の日本と皮肉にもよく情勢が似ているのではないでしょうか。

だからこそ、板垣退助をある時期の歴史上の人物として単に勉強するのではなく、彼の生き方から、今の我々がどう対処するべきかを考えていただきたいと思うのです。


■「戊辰の戦」を惹起し近代陸軍を創設した功労
さて戦前の人名辞典や人物評では板垣退助は、「薩土討幕の密約を結び、維新回天を惹起した」と非常に正確に書かれていました。ところが戦後の人物伝ではこの重要な箇所が(意図的に)省略されてしまっているものがあるため、この一文を見てピンとくる方は、かなりの歴史通かと思います。

板垣は土佐藩の軍制改革を行い、近代式な砲兵隊を組織して練兵しました。「維新回天を惹起(じゃっき)した」とは分かりやすくいえば「戊辰戦争が起こる遠因を作った」という意味です。

具体的に申し上げれば、水戸浪士の「天狗党」が筑波挙兵に失敗して四散した際、あえて幕府の本拠地である江戸に潜伏した主要メンバーたちが、当時「乾退助」と名乗っていた板垣を頼ったのです。板垣は土佐藩築地藩邸の責任者として、彼らをかくまいました(水戸浪士隠匿事件)。

その後、慶應3年5月21日京都の小松帯刀寓居(薩長同盟が結ばれたのと同じ場所)で結ばれた「薩土討幕の密約」では、この浪士たちはいずれ「有用の者(役立つ者)」となるから、身柄を安全に薩摩藩邸内に移したいと板垣は述べ、西郷や小松帯刀は快諾します。

この密約を板垣と西郷の個人的な約束と過少評価する人がいますが大きな間違いです。翌5月22日に山内容堂は水戸浪士隠匿も含めてこの密約を追認し、藩費でアルミニー銃300挺を購入させていますし、薩摩藩側も重臣会議を開き5月25日に武力討幕を了承しています。

ところが、一ヶ月後、後藤象二郎、坂本龍馬らによって「薩土盟約」が結ばれ大条理が唱えられると藩論は大政奉還による決着に傾きます。板垣は大政奉還を断固として反対、武力討幕を主張しました(この時点で薩摩と土佐は内容の異なる2つの軍事同盟を結んでいる)。

板垣は「徳川家は馬上(戦争)で天下を獲ったのだから、その社会秩序を覆すには、平和的な話し合いではなく、再び戦争をすることでしかその秩序を変えることが出来ないことは、古今東西の歴史が証明している」と必死に訴えましたが、平和的な解決策を望んだ土佐藩は板垣を「好戦的な過激派」と解釈し、総ての役職を罷免。板垣は失脚してしまいます。

大政奉還路線に舵を切った土佐藩にとって、板垣らの匿っていた武力討幕路線の水戸の勤皇派浪士の存在は危ういものとなりました。大政奉還派は土佐藩邸からこの浪士たちを追放したいと考え、武力討幕派は安全に薩摩藩邸に身柄を移したいと考えました。

真逆の意図から奇しくも大政奉還派、武力討幕派の利害が一致し、この浪士たちは同年10月、幕府の目を盗んで薩摩藩へ移されます。そして、西郷隆盛の指示の下で幕府を挑発し、あの「薩摩藩邸焼き討ち事件」が起きます。

これが鳥羽・伏見の戦いの引き金となり、戊辰戦争が始まったわけです。そして、土佐藩はこの「薩土討幕の密約」を履行して参戦し、さらにこの密約のとおり、板垣を復職させて戊辰戦争で戦わせることになりました。

つまり、板垣が浪士をかくまわなければ、歴史は違う方向に進んでいたかも知れません。西郷は「板垣さんは怖いお人じゃ、物騒な浪士を薩摩藩に担ぎ込んで、こんな大戦争をおっ初めさせるものだから」と。これは私が勝手に言っているのではなく、西郷隆盛自身が戦後の論功行賞の席で板垣に語った言葉です。

また西郷はこうも評しております「戊辰戦争で死したる人は多けれど、これをもって生きたる人は、ただ一人、君(板垣)のみ」と。

板垣は土佐藩の軍制改革を行い、近代式の練兵を行いました。それが「迅衝隊(じんしょうたい)」となり、戊辰戦争を勝ち抜き、やがて「御親兵」、そして「近衛師団」へと発展していきます。つまり、板垣は日本陸軍の原型を作った一人としてもまた賞される人なのです。

板垣が戊辰東征の時に本陣を置いた場所が、今の防衛省本部です。実際に明治38年には陸軍省より「陸軍創設功労者」として正式に板垣は表彰されていますし、亡くなった際には大正天皇からもその功績を讃える弔辞(誄詞:るいし)を賜っています。国防という土台があってこそ自由がある。これが板垣のたどり着いた結論の一つでした。


■国会開設運動と自由民主党の源流
国防の要を重視した板垣が、次に心血を注いだのが「広く会議をおこし、万機公論に決すべし」という五箇条の御誓文の実践でした。「会議を行う」と言うからには、そのための場所、つまり国会を作らなければなりません。

また第二条「上下(しょうか)心を一にして盛んに経綸を行ふべし」とは天皇陛下と国民が一体となってより良い国家を作っていこうとするもので、君民一体思想、これが自由民権運動の始まりです。

日本で最初に国会開設の請願を行ったのが、板垣が結成した「愛国公党」です。頭に「愛国」という言葉を冠した団体としては日本初となります。この愛国公党が、後の「自由党」となり、現在の「自由民主党」へと繋がっています。今の自民党の前身を作ったのは板垣である、というのもまた動かしがたい事実なのです。

板垣の功績は政治や軍事だけではありません。皆さま驚かれるかも知れませんが、実は「国技館」の名付け親とも言われています。昔、相撲は野外で行われていましたが、雨が降ると中止になってしまう。それを「雨天でもできるように常設の相撲館を作ろう」と提唱し、創設委員長を務めたのが板垣でした。

彼は当初「勝負」と「武を尚(とうと)ぶ」という意味の「しょうぶ」をかけて「尚武館(しょうぶかん)」という名を提案しましたが、委員の中で最終的に「国技館」という案が通り、土俵の上に立って最初にその名称を宣言したのが板垣でした。ですので、彼が「国技館」の名付け親であるという言い方も間違いではありません。

また、武道の保存にも尽力しました。廃刀令の後、居合などの伝統武術が消えゆく危機にありましたが、板垣は「これこそ日本の誇るべき文化として残すべきだ」と考えました。彼自身、無双直伝英信流という居合の達人であり、第15代目の宗家である谷村亀之丞自雄は、板垣の祖母の弟でした。また板垣の初妻は林益之丞政護の妹ですが、彼女の曾祖父は第12代宗家の林益之丞政誠であり、板垣は親族としてその価値を誰よりも理解していたのです。

さらに、福祉の分野でも先駆的な活動をしていました。当時は、女性受刑者が獄中で出産すると、そのまま牢獄の中で子供が育てられるという、今では考えられない環境でした。板垣は「それでは子供の将来に悪い影響が出る、適切な育成場所が必要だ」と訴え、自立支援の場を作らせました。

また、軍事上の必要性から競馬を奨励して軍馬の育成を図ったり、視覚障害者の自立支援を行ったりと、彼の活動はまさに多岐にわたります。こうした文化・社会的な貢献の積み重ねも、板垣退助という人物の大きな側面なのです。

現在、国会議事堂の中には、明治憲法発布50年を記念して建てられた3人の銅像があります。憲法を創った伊藤博文、国会を創った板垣退助、そして法律と教育の整備をした大隈重信。この3人は、近代日本の骨格を創った憲政の三巨人として誰もがその価値を認める存在です。

しかし、議事堂内にはもう一つ、銅像の建っていない「空の台座」があるのをご存じでしょうか。4人目の功労者が誰なのか決まらなかったのですが、「憲政に完成はない」という未完成の象徴だと説く人もあります。あるいは、「将来、この3人に匹敵する人物が現れた時に建てるためだ」とも言われています。

今、高市早苗総理が女性初の首相として、歴史的な大舞台に立っておられます。彼女が日本の歴史に素晴らしい実績を残されたならば、将来、あの四つ目の台座に立つべき方なのかも知れない……そんな風に私は考えております。もちろん、これは皆さまがどう判断されるか次第ではございますが。


■坂本龍馬と板垣退助 桂浜の石碑に込められた想い
もう一人の土佐の英雄、坂本龍馬とのエピソードを披露させていただきます。

板垣は後藤象二郎の銅像建立を助けたり、坂本龍馬を顕彰する碑を建てたりと、志半ばで倒れた同志たちの功績を後世に残すことにも熱心でした。

龍馬の彰勲碑は現在、桂浜にあります。実は、あの有名な龍馬の銅像よりもずっと前に、龍馬の生家前に建てられた石碑が移設されたものです。

私は明治維新150年の折に、この由緒ある石碑を写真に収めようと桂浜へ向かいました。ところが、現地の方に聞いても県の観光課に聞いても「知らない」と言われ、地図にも載っていない。当時高知は維新博を開催し歴史的な節目と喧伝して観光を誘致しながら、顕彰の仕方が偏っているのではないか……そんな風に感じたこともありました。

坂本龍馬の石碑には、上部に土方久元の七言絶句があり、その下に板垣が龍馬を称える長文を寄せ、坂本家の人がお礼に板垣退助を訪れた際のエピソードなどが知られています。

ところが、現地の英文解説看板では、板垣退助が書いた文章であるとの説明は一切書かれておらず、海外の人が読めば、石碑の文章は総て土方久元が書いたものだとミスリードさせる構成になっているのが現状です。

また、偶然かも知れませんが、よさこい等の演目を踊るために仮設されたべニア板の囲いの裏にひっそりとあり、正面からは見えない会場設営となっていました。この石碑が建立された歴史経緯を知る者からすれば、こうした扱いは非常におかしいと感じざるを得ません。私たちは、こうした歴史の断片を正しく見直していく必要があるのではないでしょうか。また、板垣は明治天皇が崩御された際、神社や銅像の建立を強く発議した人物でもあります。これが現在の明治神宮の創建へと繋がっています。さらに、戊辰戦争で敵対した会津藩の名誉回復に尽力したり、現在の台湾国会の前身となる台湾議会の創設を支援したりと、彼の活動は国境や過去の恩讐をも超えて広がっていました。これが「板垣退助は何をやった人なのか?」という問いに対する、もう一つの大きな答えなのです。



『先見経済』令和8年5月号(32頁)


講演会の時の様子


■6度の暗殺未遂 「常在戦場」の凄まじい人生
 板垣といえば「岐阜での暗殺未遂事件」があまりにも有名ですが、実は彼が狙われたのは一度きりではありません。判明しているだけでも、生涯に6度もの暗殺未遂に遭っております。ではなぜ伝記では岐阜遭難事件ばかりが語られるのか。それは、6回分をすべてを詳細に書くと、それぞれのボリュームが大きすぎて本の内容が「暗殺されかけた話」ばかりで終わってしまうからなのです(笑)。

つまり、彼は常に死と隣り合わせの「常在戦場」という緊張感の中で生きていました。最初の事件は文久3年、京都でのことです。当時は「乾退助」と名乗っていた時代ですが、なんと味方であるはずの土佐勤王党から命を狙われました。きっかけは、藩主の山内容堂公がテロリズムに走る勤王党を遠ざけ、代わりに板垣に新たな警備組織を作らせたことへの逆恨みでした。当時の暗殺は凄惨なもので、殺害した相手の耳を切り取って公家の屋敷に投げ込むといった、今で言うテロリストのような手法が横行していました。板垣は「勤王の志は尊いが、このやり方では天皇陛下の名を汚すことになる」と憂慮したのです。この時は、板垣が一切の隙を見せなかったことで切り抜けました。のちに薩土討幕の密約が結ばれた際、盟友の中岡慎太郎が「板垣を殺してはならない」と勤王党の仲間に書簡を送ったこと。獄中にあった勤王党員を板垣が釈放させたことで信頼関係が構築され、最終的に勤王党員らは板垣率いる迅衝隊士の一員として戊辰戦争を戦う同志となりました。その明治元年の戊辰戦争真っ只中、日光東照宮でも暗殺未遂が発覚しています。板垣は世界遺産でもある東照宮を戦火から守るため、礼節を以って参拝し平和裏に引き渡し交渉を行いましたが、負傷兵を装った残置諜者10名以上が光栄坊に潜伏し板垣を狙撃しようとしていたのです。

明治15年の岐阜遭難事件についても、誤解を解いておく必要があります。この時、板垣は7ヶ所もの傷を負いました。あの有名な「板垣死すとも自由は死せず」という言葉に関しては、正確には「我死するとも自由は死せず」と言ったのが正しいとされています。そして、ここで言う「自由」とは、単なる自由主義の概念ではなく、「私一人を殺しても、自由党の勢いを止めることはできないぞ」という、政党としての意地を指していました。この言葉を叫んだタイミングについても、刺される瞬間ではありません。瞬間は必死に格闘していますから。犯人が捕縛された後、あるいは傷の手当を受けている最中に、周囲に繰り返し語った言葉なのです。それがお芝居や講談ではドラマチックに脚色され、「刺された瞬間に叫んだ」というイメージが定着しました。もっとも、この言葉自体は岐阜事件より数年も前から同様の趣旨の発言「余(板垣)は死を以て自由を得るの一事を諸君に誓う(明治13年12月2日)」などが記録されており、死を覚悟して活動していた板垣が日頃から演説で語っていた魂の叫びであったであろうことは間違いありません。


■北海道を救った「電撃作戦」 99年租借の危機
 本日の講演で、皆さまにこれだけは覚えて帰っていただきたいという最も重要なお話があります。それは、板垣退助が「北海道が外国の領土になるのを防いだ」という功績です。

戊辰戦争の際、会津藩や庄内藩は追い詰められ、軍資金に困窮していました。そこで彼らは、ドイツ(当時はプロイセン)の商人ヘンリー・シュネルを通じて、なんと北海道の広大な領地を「99年間貸し出す」という契約を結ぼうとしたのです。「貸すだけならいいじゃないか」と思われるかも知れませんが、当時の国際政治において99年の租借は事実上の売却と同じ意味を持ちます。香港がイギリスに割譲されたのと同じ理屈です。もしこの契約が成立していれば、北海道はドイツの領土になっていた可能性が極めて高いことになります。当時、新政府軍の軍事天才・大村益次郎は「周りからじっくり攻める」という安全策を指示していましたが、板垣はこれに真っ向から反対しました。

「南国育ちの我ら薩摩・土佐の兵が、雪深い北国の冬を越すのは危険だ。一気に本丸(会津)を叩くべきだ」と主張し、無茶とも思える猛進を続けました。この時、板垣は「大小便も走りながらせよ」「立ち止まる者は味方でも斬り捨てる」という壮絶な命令を下して会津城下に迫り、わずか一ヶ月で会津を落城させました。

ドイツのビスマルクは、一旦はこの領土買収を断り、のちに承諾する返事を出したため、書簡が日本に届いたのは会津が落城してから一週間後のことでした。板垣がもしあと一週間、大村の言う通りに時間をかけて攻めていれば、返書が届いて契約が発効し、北海道は日本の地図から消えていたかも知れません。

板垣が無茶な命令を出してまで会津を急いで攻め落としたのは、真相から云えば、この売却計画に対し、日本の国土分断から守らねばと考えたからに他なりません。これはベルリンの連邦文書館に『駐日公使発本国向け外交書簡』として書簡の実物が残っており、疑いようのない史実です。

板垣は会津を落とした後、どうしたのか。幕末に開港問題で勅許の有無が焦点となったのに比して考えれば、国土の無断売却は許されざる大罪ではないかと考える人もいました。しかし、板垣はその罪を糾弾するどころか、藩主たちの助命を嘆願。さらにこの事件が大きく喧伝されることを防ぎ、敵方の名誉回復に努めました。それは「欧米列強の侵略から日本を守るためには、日本人が一致団結せねばならず、日本人同士の軋轢や思想的に分断を招いてはならない」という高い視点を持っていたからです。
よく歴史小説などでは「新政府軍(官軍)が会津藩士の遺体の埋葬を禁じ、野ざらしにした」という恨み節が語られる事がありますが、これは土佐藩の名誉のために申し上げると完全なフィクションです。近年の調査で、落城のわずか10日後には明治政府が埋葬令を出し、多額の予算を投じて五百体以上の遺体を丁寧に埋葬していた記録(『戦死屍取仕末金銭入用帳』など)が発見されておりますが、いまだに現地の案内板などでは「埋葬を禁じられた」という誤った解説が残されています。また福島の棚倉城は、城主が撤退する時に自焼して撤退したのにも関わらず、城跡にある案内板では「政府軍が棚倉総攻撃に入り棚倉城は炎上し落城」と、進軍した板垣が城を焼いたかのように記載しています。この時も実際には板垣ら土佐藩の兵たちは、敵に対しても武士としての礼を尽くしました。「勝てば官軍」という言葉を軽々しく使う人がありますが、これは天皇陛下の権威を凌侮し、護国のために散っていった英霊たちに対して、あまりにも不敬な言葉ではないでしょうか。歴史をドラマチックにするために史実を曲げ、片方を悲劇的に演出し、片方を悪辣に描く。このような昨今の風潮は憂慮に耐えません。天皇陛下の大御心に反するのではないかと考えるからです。
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「板垣死すとも自由は死せず」の一言は有名ですが、その背後には、6度の暗殺を乗り越えた強靭な意志、北海道の危機を救った迅速な決断力、そして敵味方を超えて日本を一つにしようとした深い慈愛があります。

私たちが歴史を学ぶ意味は、単に過去の出来事を知ることではありません。板垣が命を懸けて守ったこの国を、今を生きる私たちがどう守り、どう発展させていくか。その精神を知り自らの血肉とすることにあります。 板垣退助という一人の武士が、自由と日本のために尽くしたその心──「板垣精神」を少しでも感じ取っていただけたなら、これに勝る喜びはありません。
本日は長い時間、ご静聴ありがとうございました。


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投稿日:2026/05/01

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