
髙岡功さまは、昭和17年(1942)6月27日兵庫県生まれ。同志社大学工学部電気工学科を卒業後、日本電信電話公社本社総裁室へ入社。その後、電電公社八尾統制無線中継所所長、NTT六甲統制無線中継所所長などを歴任。昭和62年(1987)、auの前身となる関西セルラー電話株式会社の設立準備に参画、技術部長として携帯電話の技術開発に従事。当初、NTTから出向する形での技術協力でしたが、関西セルラーの設立に伴いその技術部門のトップの一人として携帯電話の黎明を支えられました。当初アナログ式であった携帯電話をデジタル化し、またcdmaOneなどを主導。平成6年(1994)、関西セルラー電話の取締役に就任、のち社名はau、またKDDI(第二電電)へと変わり事業拡大を遂げ、功さんはKDDIの上席理事、顧問として携帯電話の普及に寄与。
六甲無線での2年間を私は髙岡君と同じ職場、しかも同じ課(試験課)で過ごしました。その後私は、昭和46年(1971)の2月に北海道・札幌の方へ転勤になりましたので、髙岡君とはそれ以降お会いする機会はありませんでした。
往時の「六甲統制無線中継所」は「試験課」と「整備課」、それに所内事務を扱う「庶務係」、そしてトップの所長という2課1係からなる割合小さな組織でしたが、溌溂とした若者が多く、大変活気のある職場でした。…と申しますのは、専門技術に長けた、所謂やる気に溢れた進取の気概を持った若者が多く在籍し、広い意味で大いに活気ある職場であったというのが、私の記憶です。
髙岡君は専門技術に長じた、いわば課内でも最右翼の人材で、「作業主任」という技術の中核的なポストでした。彼は試験課の中でも最年少の世代にも関わらず、彼の高い技術力ゆえ、試験課技術部門の中心的な存在で、周囲の職員からの高い信頼の中で日夜活動をされておりました。因みに、職場は24時間勤務でしたので、髙岡君も夜間勤務の機会が多かったことかと存じます。
当時の六甲無線中継所は、関西でも比較的小規模の現場でしたが、組織的には小規模にも関わらず、数ある関西の無線中継所の中で大変存在感のある目立つ現場で、多くの優れた事業実績を上げることが出来た職場であったと記憶しております。そして、実際に電電公社関西無線部門の将来を担う、多くの優れた人材を輩出した職場であったと、今でも私は自負しております。
当時、職場のトップであられた所長さんで、駿河さんと坪井さんというベテランのお二方に私は仕えたのですが、お二方もすでに故人となられたかと存じますが、大変ユニークな方々で、且つ優れた指導者でもありました。そんな雰囲気の中で、髙岡君を始めとする多くの若い世代が大変優秀であったことが、優れた事業実績を上げて存在感のある職場となった理由ではなかったかと今でも考えております。
斯(か)くも優れた若い人材を、六甲という山上の小さな中継所に集めることが出来たのは、やはり、ひとえに駿河さん、坪井さん、というお二方の所長さんのリーダーシップと優れた手腕によるところが大きかったかと私は考えております。そして、当時の若き髙岡君も、優れた同僚と仕事を通じて大いに切磋琢磨されて、ご自身を鍛錬することが出来たのではないかと拝察するところです。
ずっと時代は下って、その後、髙岡君もはれて六甲統制無線中継所の所長として、ご栄転なされたことを知りましたが、髙岡君も若き時代の六甲での記憶にさぞや感慨深い思いであったことかと深く拝察いたします。
私は、昭和46年(1971)2月に六甲を去って以降、札幌勤務となり、その後しばらく本社勤務を経て、一転、海外で発展途上国(パプアニューギニア)支援の仕事に平成18年(2006)まで終生従事しまして、今はごく平凡な年金生活を送っております。
数年前になりますが、ひょっとしたことから髙岡君と電子メールで連絡をとりあっていたのですが、私にとっても大変懐かしい六甲での思い出を、何処かで髙岡君とともに語ろうと思い、関西へ出向く計画を話していた矢先、私の高齢ゆえの急激突然の体調不良で立ち消えとなってしまいました。今にして思いますと、懐かしい髙岡君との再会の機を逸してしまい、大変残念なことと大いに悔いております。
心から髙岡君の冥福をお祈り申し上げます。誠にささやかでございますが、仏花をお送り申し上げますので、髙岡君の御霊前に捧げていただけると幸甚です。ありがとうございました。
鈴木靖男