戦後63年・靖國神社参拝 (平成20年8月15日)

本日は大東亜戦争の終結より63年目の節目の日。

戦争体験者の方々のお話しを聞けるのは、我々が最後の世代かもしれません。…という訳で東京の靖國神社に参拝し、癸丑以降、国事に奔走され散華された勤王の忠臣、護国の英霊に感謝と哀悼の洵を捧げました。この英霊の中には、板垣退助の配下に属し、戊辰戦争で散華された御祭


神もおられます。にも関わらず世間では戦後史観が蔓延し、勤王の大義は隅に追いやられるばかり。
本当に悲しい。「討幕の密勅は偽物だった」「錦の御旗は偽物だった」という声を聞くたびに国に殉じた御祭神のことを思うと心が張り裂けそうに痛みます。また「賊軍も本殿へ奉れ」などは、例えるならば「湊川神社に足利尊氏を奉れ」と云っているような暴言ではないでしょうか。「賊軍」と呼ぶな「旧幕軍」と呼べと指図する人もいます。しかし、鳥羽伏見の戦いで敗北を喫した徳川慶喜は江戸へ撤退して謹慎・隠居し、さらに甲州勝沼の戦いで、板垣が甲陽鎮撫隊を降してからは、勝海舟と西郷の会談によって江戸城は無血開城したのですから「幕軍」と呼ぶのは歴史的経緯から見ても相応しくありません。呼ぶとすれば「旧幕側叛軍」ではないでしょうか。我々がこの靖國神社へ参拝する理由は、世に「靖國史観」と揶揄する人があろうとも、何があろうともブレが無いこと。その一言に尽きます。板垣退助も一生涯を通じて「勤王」にブレの無い人でした。


ところが昨今の板垣退助に対する、テレビや書籍での解釈や取り上げられ方。戦後史観では、板垣の勤王精神が悉く削られ「コレジャナイ」感が半端ありません。研究者が自論に都合の良いところだけをつまみ食いして語った板垣像は、身内から見た板垣の実像とはまるでかけ離れ、ともすれば真逆の人物に仕立て上げられているのが現実です。

さらに、これを放置すると、みんな、戦後つくられた「おかしな板垣像」を板垣の真の姿だと思ってしまうのではないかという危惧があります。

板垣が岐阜で刺客に襲われた際、「自由の権利を主張する社会運動をしている白髭の老人が刺されて『板垣死すとも自由は死せず』と言い残して死んだのだと真剣に勘違いしている人。あるいは「実際に『板垣死すとも…』とは言っておらず『イタイガーヤキー』と言った高知弁が『板垣…』に聞こえたのだ」との小噺を真実だと思って物知り顔で説明して悦にいる人。

上野に西郷隆盛の銅像が建立された時の除幕式で、絲子夫人は「こげん人ではなか(こんな人ではなかった)」と驚いて口にしたそうですが、戦後作られた板垣退助本の内容も正にそんな感じではないでしょうか。本年7月16日、板垣退助は九十回忌を迎えました。あと10年で百回忌。そんな歪められた板垣像が語られたまま、百回忌を迎えてしまって良いのでしょうか。そうさせないためには何をしないといけないのか、何が出来るのか、何から始めねばならないのか。悲しすぎる百回忌を迎えない為にはどうすれば良いのか。今からでもしっかり考えておかねばならない問題ではないかと感じております。


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投稿日:2008/08/15

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