第12回 勉強会「板垣退助と西郷隆盛」(平成30年2月22日)

平成30年(2018)は、明治維新150年・板垣退助百回忌。明治維新の精神を顕彰する活動を行ってまいります。 新春2月は、板垣退助と西郷隆盛をテーマとした勉強会を開催いたしました。


【勉強会】
●とき:平成30年2月22日(木)
   18:30~(開場)
●ところ:大阪府大阪市城東区蒲生4-7-17
       蒲生 寺子屋・久楽庵


●主催:一般社団法人 板垣退助先生顕彰会
板垣退助と西郷隆盛ご案内フライヤー.PDF

(裏面)板垣百回忌ご案内フライヤー.PDF


久楽庵で大西郷の勉強会

本年のNHK大河ドラマは「西郷(せご)どん」。幕末「薩土討幕の密約」以降、板垣退助と西郷隆盛は真の友として交流し、日本の歴史の転換期を支え、明治維新を成し遂げました。彼らの二人の交誼をエピソードを交えながら詳しく解説して参ります。

 

板垣ゆかりの「愛国社」設立の地・大阪で勉強会

築150年の古民家をリノベーションした「久楽庵」は、地元大阪城東区で「蒲生 寺子屋」と呼ばれ親しまれている憩いのスペース。大阪 蒲生の名士・杦田さまのご協力を得て、蒲生 寺子屋・久楽庵で勉強会を行いました。


蒲生 寺子屋・久楽庵と杦田社長(本会撮影)

板垣退助と西郷隆盛レジュメ(板垣退助先生顕彰会)

 

1.はじめに
本年は、明治維新150年・板垣退助百回忌。NHK大河ドラマは「西郷(せご)どん」。
幕末「薩土討幕の密約」以降、板垣退助と西郷隆盛は真の友として交流し、日本の歴史の転換期を支え、明治維新を成し遂げた。彼らの二人の交誼を、エピソードを交えながら詳しく解説する。


「板垣退助と西郷隆盛」勉強会(当日・本会撮影)

2. 毛利吉盛(恭助)よりの伝聞
退助より先に薩摩藩士・西郷隆盛と交誼を結んでいた、毛利吉盛(土佐藩士)より、「西郷吉之助(隆盛)」のことを伝えられていた退助。吉盛は退助に

「君が西郷という男を見たらきっと驚くよ。なぜなら彼の風体面影は君の亡父君(乾正成)そっくりだからね」

と語っていた。


下は小学生からの参加者で寺子屋は満席御礼

3. 西郷隆盛と会見
慶応3年5月21日(1867年6月23日)中岡慎太郎の仲介で、西郷隆盛と会見し意気投合。「薩土討幕の密約」を締結。土佐藩邸に隠匿していた勤王浪士(中村勇吉、相良総三ら)を薩摩藩邸へ隠匿引き渡しを約す。これが、庄内藩による薩藩焼討事件(戊辰戦争の引き金)となる重要事項。

4. 「薩土討幕の密約」と「薩土盟約」の違い
どちらも「薩土同盟」と略されることがあるが、全く性格の異なる軍事同盟で要注意。

【薩土密約】中岡慎太郎の仲介によって、慶応3年5月21日(1867年6月23日)、京都の小松清廉邸で、薩摩藩の西郷隆盛・吉井友実・小松清廉らと、土佐藩の板垣退助・谷干城・毛利恭助・中岡慎太郎らが結んだ、武力討幕による回天維新のための密約。「薩土討幕の密約」ともいう。

 

【薩土盟約】坂本龍馬の仲介によって、慶応3年6月22日(1867年7月23日)、京都の三本木の料亭で、薩摩藩の西郷隆盛・小松清廉・大久保利通らと、土佐藩の後藤象二郎・寺村道成・真辺正心・福岡孝弟らが結んだ、大政奉還による公議政体のための盟約。「薩土提携」ともいう。

 

5.「大政奉還」論に反対し失脚
「大政奉還」を献策する後藤象二郎(退助の竹馬の友)。容堂公に対し「今更、将軍の政権奉還などは因循姑息の策(ごまやかし)である。『大政返上』は名は美なるも、畢竟空名(有名虚実)にすぎぬ。今、朝廷が之によって天下に号令せんとするも、実権が伴はなければ、真実、『大政を奉還した』とは云へぬ。徳川家はもと、家康公の時に馬上(合戦)で天下を取った者である。されば馬上(合戦)で之を返して朝廷に奉る上でなければ、とても200有余年の覇政は覆へされぬ。無名の師はもとより、王者の与(く)みせぬところであるが、今日、幕府の罪悪は天地に満ちている。さるに敢然と討幕のことをしないで、空名を存するに務むるは誤見である」と述べるが取り上げられず全役職を罷免され失脚。

 

6. 鳥羽伏見合戦の火蓋が切られる。(戊辰戦争の始まり)
山内容堂公は、静観を指示するものの「薩土討幕の密約」に基づき、土佐藩士・吉松速之助、山田平左衛門、山地元治らは参戦。これらの決断が評価され官軍としての土佐藩の以後の行動を決することになる。西郷らの意を受けて、谷干城は、早馬で土佐へ開戦の一報を知らせる。京都藩邸は「片岡健吉を大将として上洛せよ。乾(板垣)退助は絶対に上洛させるな」との指示。土佐藩は京都藩邸の指示を無視し、藩主・豊範公の決裁のもと退助を大隊司令として上洛。

 

7. 江戸無血開城
「錦の御旗」を御下賜あらせられ2月14日、京都を出陣。12代前の先祖「板垣」の名に復姓。道中連戦連勝を重ね、大久保大和(近藤勇)を撃破。快進撃を続け江戸へ。退助は「江戸無血開城」に反対するも最後には西郷の説得に折れ意見を容れる。退助の本陣が今の防衛省本部(尾州徳川藩邸・尾州藩は官軍の雄)

 

8.会津決戦への快進撃
厳しい軍律を敷き、官軍としての名誉を尊重。日光東照宮を兵火から守る。一君万民・四民平等への目覚め。旧賊軍諸士の社会復帰・名誉回復に尽力。

 

9. 西郷とともに台閣に列す
西郷との交誼のエピソードの数々。

 

10. 征韓論
明治維新以降の朝鮮政府の不道徳、不敬の数々、加えて欧米列強(特にロシア)の脅威から「征韓論」の大義を説く。閣議決定されたものを反故され西郷と共に官を辞す。官吏600余名もこれを支持して共に下野(明治6年の政変)。これが自由民権運動の出発点となる。

 

11.「大阪会議」と板垣の復職
西郷も同時に復職させることを条件に参議へ復帰。しかし西郷は復職を断る。退助も意見が容れられず辞職。明治10年西郷が兵を起し「西南戦争」が勃発。政府は退助の動向を警戒。退助腹心の土佐人も一部は参戦。退助の胸中の言葉。

 

12. 政界引退後、西郷の肖像画を後世に残すことを尽力
退助は、政界引退後に己の成すべき事として「『自由党史(現在の自民党の前身)』の編纂と、西郷隆盛の肖像画の作成」を挙げている。熊本出身の光永眠雷という画家を支援して西郷の肖像画を完成。天覧(明治天皇へ献上)に浴し、糸子夫人へ御下賜。

 

13. 『自由党史』完成後、巻頭に「西郷隆盛の肖像画」を載せる
退助は、自らの自由民権運動を西郷の精神とともに培ってきたものと位置づけている。(この肖像画は「日韓併合記念特集号」誌などにも、迫真の「西郷隆盛像」として掲載されている)

 

14. 西郷から板垣の評価
「軍事において板垣の右に出る者はいない」と退助を高く評価。

 

15.まとめ

 

16.質疑応答
質疑応答も参加者皆様から熱心な質問があり会場は2時間きっかり、大いに盛り上がりました。

 

次回、3月の勉強会は「板垣退助と頭山満」をテーマにこちら「久楽庵」で行います。
皆様とお会い出来ますことを楽しみにいたしております。


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投稿日:2018/02/22

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