三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼 第52周年慰霊祭(令和4年11月19日)

11月25日の【憂国忌】を目前にして、本日は大阪護國神社へ。三島由紀夫・森田必勝両烈士第52周年慰霊祭に参列し、謹んで太玉串を奉奠致しました。


三島・森田両烈士が、日本民族に決起を促し檄を飛ばされ、割腹して果てられました防衛省本部(尾張藩徳川家上屋敷跡)は、まさに戊辰戦争の時、板垣退助が官軍参謀として本陣を営んだ場所であります。それゆえ両烈士がその場所を最期の地として選ばれたことに関してはひときわ想いを深く致す処があります。

記念講演は日本青年協議会代表・大葉勢清英先生による『三島由紀夫と憲法改正』。


『三島義挙の精神』とは、すなわちGHQから押し付けられた「詫び証文」の如き屈辱的な現行憲法の条文に憤り、それを糺さんと憲法改正を促すことにある。その思いを共有できる仲間たちと集いました。


     檄文
われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。

かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 



 われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。


 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。


 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。

 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。


自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。

 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。

 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

        三島由紀夫


 この檄文を読んでも何も感じない人間があるだろうか。泉下の板垣退助が蘇ってこれを聞けば「その通りだ!」と叫ぶに違いない。それぐらい完璧かつ用意周到な文章で、これは、板垣精神(※戦後の偏向した板垣像では無い、眞の板垣像)そのものであると云っても過言ではない。しかも、これは52年前の日本の出来事ではなく、今も儼然と日本が抱える問題。ウクライナ戦争が収まりを見せぬ中、今の我々の日本が直面している問題でもある。

なぜ板垣精神と三島精神が等しいか。

それは、板垣退助が近代日本陸軍の創設者の一人であるからだ。

近代日本陸軍の創設者は大村益次郎や山縣有朋、西郷隆盛だと思っている人は、歴史を一から学んで欲しい。勿論板垣ひとりでつくった訳ではないが、板垣退助が御親兵を献上し、それが近衛兵となり近衛師団となり、日本陸軍の前身となったのは歴然たる事実で、明治37年、板垣退助は日本陸軍創設の功労者として陸軍省より感謝状を賜っている。

ゆえに三島由紀夫が近代日本陸軍の建軍の精神に立ち返れば、板垣精神と等しくなるのは当然と言える。


特に「もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来た」という文章は、江戸時代、武力討幕を決意した乾(板垣)退助と重なるものがある。当時は「幕府」が「天皇」の権威を蹂躙し『禁中ならびに公家諸法度』によって武家が公家と皇室を縛った。「もっとも名誉を重んずべきサムライが、もっとも悪質な欺瞞を行っていた」のである。「日本は皇国(すめらみくに)ではないか、神州ではないか、なのになぜこのような悪質の欺瞞が、摂関政治の時代から数えると700年も続いているのか」と、これを最も憤り、幕府という巨大な敵に立ち向ったのが板垣退助であった。「共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬ」などは、乾(板垣)退助と中岡慎太郎が「薩土討幕の密約」を結ぶ前に交わした議論の中の板垣退助の言葉と何んと良く似ていることか。


戦後社会の、大いなる矛盾を放置し、憲法改正の義挙を怠ってきた自民党も真摯に反省せねばならない。平成30年に行われた板垣百回忌には防衛者、自衛官各位にも招待状を出したが現職の方々の参列は見送られた。防衛省OBの方はおられたが、現職の方々がおられなかったのは政治的配慮が成されたものと我々は解釈している。「日本陸軍の祖は板垣かもしれないが、自衛隊の祖はマッカーサーだ」と態度で示されたような気がしたものである。そして、板垣精神を突きつめると極めて反米的色彩を帯びるため、それに抵触したのではないかと感じた。

しかし、誤解しないで欲しい。我々は反米なのではなく、米国に従属した形での軍事同盟では無く、米国と対等な軍事同盟を求めているのである。「…戦後70年。そんな昔のことは水に流して仲良くやろう」と言われても、その70年前に嵌められた首枷は頑丈な鍵をつけられたまま。その姿で尻尾を振って米国に靡くような光景を後世に引き継ぎたくないと感じるからである。

さて前置きが長くなったが、本日、この慰霊祭に参列し、三島・森田両烈士の志を次世代に継いでいかねばと改めて心に誓った次第。献杯!(理事長談)


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投稿日:2022/11/19

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