NPO法人板垣会・会報第10号発行(令和4年12月)

板垣会の会報第10号(最新号)発行。今回は新会長に就任された、薫的神社の中地英彰宮司のご挨拶。浅野財閥・浅野総一郎玄孫(板垣退助玄孫)浅野造史さま、歴史研究家・伊藤璃佳さんなどなどの寄稿があって、いつになく豊富な内容に仕上がっております。毎年1冊発行して気づけば10年。本年は板垣岐阜遭難から140年ということもあり、弊会・髙岡理事長は表紙用の写真を提供しております。


『板垣退助と浅野家のことなど』
浅野総一郎玄孫(板垣退助玄孫)浅野造史

  子孫のつながり
「板垣の記念書籍のタイトルを書いてくれませんか?」
一般社団法人板垣退助先生顕彰会理事長の髙岡功太郎さんとの初めての会話はそんな感じであったと記憶しております。平成三十年(二〇一八)、東京品川で斎行された板垣退助百回忌では、親族参列者各人に役割が与えられており、私にはなぜか「揮毫」のご指名が。もとより真剣に「字」なるものを書いたことはなかったのですが、この直会の席で、美味しいお酒を頂きながら和やかな雰囲気の中で「私でよろしければ…」と気軽にお受けし、その場で下手な筆を滑らせました。当初から、あの様に重みのある書籍に仕上がると知っておれば、きっと固辞していたことでしょう。


しかしながら結果としては、この百回忌の記念の日に子孫親族らが集まって、各々の役割を果たし、作り上げた本となったわけですから貴重と言えば貴重。先祖も苦笑しながら喜んでいるのではないかと思っております。

さて私がこの日、板垣百回忌に参列することになったのは、浅野家の親戚・私の父の従兄弟にあたる浅野一(はじめ)さんからお誘いを受けてのことでした。浅野一さんは、五十年前の「明治維新百年・板垣退助先生五十回忌」の時に参列されたのが十九歳であったとのこと。板垣退助令孫の故板垣正貫氏夫人・板垣晶子(退太郎母)さま、板垣直磨(退助曾孫・退太郎弟)さま、秋山範子(旧姓板垣、退太郎姉、青梅板垣像の除幕者)さま、髙岡さんの御母さまにあたる髙岡眞理子(当時はご結婚前


で乾姓)さま、同じく御祖父の乾一郎さま、私の曾祖母・浅野千代子(旧姓板垣)の妹にあたる小山良子(旧姓板垣)さまともその時にお会いされたとのことです。浅野家からは親族をはじめ、中島厳さまへ嫁いだ中島ふさ子さん(旧姓浅野、国会議事堂板垣像の除幕者。中島偉充さんの御母さまにあたる)等もお越しになられ、盛大な式典となったとのことでした。

  板垣退助百回忌
それから五十年を過ぎた平成三十年(二〇一八)は、明治維新百五十年・板垣退助百回忌を迎える年となり、板垣退助とゆかりのある高知・岐阜・東京ではそれぞれ少しずつ日を変えて記念式典が行われる事になりました。


日を変えたのは各々が他の地域の式典に参列できるようにとの配慮からだそうで、浅野一さんは同年七月十六日、高知で催された板垣百回忌命日法要に列席し、九月二十九日、東京品川で斎行された墓前法要「板垣退助先生薨去百回忌顕彰祭(愛国忌) ・特別位牌奉納式」にも参列。そして、私もこの東京での特別法要に誘われて、歴史的な式典に参列することになったのでした。当日は宮内庁関係の方や政治家、『五箇条の御誓文』の起草・削修を行った福岡孝弟の曾孫・福岡孝昭さまや、土佐藩家老・深尾家の御子孫・深尾和男さまなどがお越しになるなど、日本史好きの私にとっては、非常に価値のある一日となりました。


  浅野家のこと
さてわが浅野家は明治期から昭和初期を駈け抜けた明治十五大財閥の一つ浅野財閥の創業者、初代・浅野総一郎に端を発しています。板垣百回忌の参列者としてなぜ私に声がかかったのかというと、二代目・浅野総一郎(前名泰治郎)の正妻が板垣退助の四女・千代子さんだからです。ちなみに板垣退助長男の系統が板垣家、次男の系統が乾家(現・髙岡家)、浅野家は四女・千代子の系統となります。
私は初代・浅野総一郎の玄孫(長男の長男の長男の長男)、かつ板垣退助の玄孫にあたります。…とは言え、この世代ともなると浅野家のことも、板垣家のこともぼんやりと遥か昔の夢物語のように感じる程度です。


二代目・浅野総一郎(前名泰治郎)の時代に終戦・財閥解体などがあったことにより、私自身は一般的な転勤族サラリーマンの家庭に生まれました。そのため、小学校~中学校の遊びざかりの成長期を育んだ心の故郷は大阪府箕面市。箕面山は風光明媚な滝と猿が棲むことで知られておりますが、私もその猿のように自然豊かな緑の山を駆け回っていました。髙岡功太郎さんのご実家も当時は箕面市で、板垣の玄孫どうしが、同時期に同じ箕面市で少年時代を過ごしていたと知った時には、お互い不思議な縁に驚きました。逆に関東の浅野家とは関西・関東という距離があったこともあって親戚付合いは(子供にとって退屈なだけの)法要でお会いする程度でしたので、私は幼少期に浅野家の話を耳にする機会は余りなく、また当時、学校


教育の場では公害が社会問題として大きく取り上げられていた関係もあって、「公害=財閥=悪」の構図が強いイメージとして影響したのでしょうか、殆ど浅野財閥のことを学ぶ機会はありませんでした。私自身は大学受験でも「歴史」の教科に関しては改めて勉強する必要がないぐらいの歴史好きでしたが、その専門領域は戦国時代や『三国志演義』などで、当時は日本の幕末明治の動乱期に関しては、それほど興味を感じておりませんでした。
そんな中、平成二十八年(二〇一六)、たまたま初代・浅野総一郎の生まれ故郷・富山県で生活する機会があり、折角なのでご先祖さまのことを軽く調べ始めました。その頃、故郷氷見市で浅野総一郎の顕彰活動をしておられるボランティア団体の


理事長さまとお話をする機会があり、初代・浅野総一郎が創業した東亜建設工業株式会社の広報の方にゆかりの品々を見せていただきました。また初代・浅野総一郎の伝記小説を書かれた作家・新田純子先生にもお会いする機会があり、先生がご教示くださった富山にある総一郎ゆかりの地を、あちこちを巡っては写真に収め、先祖の往時に想いを馳せました。なかでも庄川温泉郷にある「小牧ダム」は、浅野総一郎が庄川電気を起業し、大正十四年(一九二五)建設に着手、昭和五年(一九三〇)に完成した大事業で、堤高七十九・二メートル。建設当時は東洋一のダムと呼ばれたそうで、今でもその壮大なスケールに圧倒されます。


浅野総一郎と板垣退助とをつなぐ接点となったエピソードなどは、残念ながらよく存じ上げません。ただ初代・浅野総一郎はセメント、港湾埋立、石油、サンフランシスコ航路開拓、造船、ダム建設、その他いろいろな事業を手掛けた「事業狂」ともいわれる人物でありながら叙爵のご沙汰を辞退したり、国会に呼ばれた際も、現場さながらの長靴を履いて、ステッキを片手に悠々と出向くというような、一本筋の通った豪快さがあり、板垣退助と気が合ったのではないかと思っております。曾祖母・千代子については、私の父が二歳ぐらいの時に亡くなりましたが、父はうっすらとですが、その記憶が今でもあると申しておりました。父の話によると、千代子さんは非常に威厳のある風格をした純和風の日本女性であったとのことです。


  浅野家歴代墓所・総持寺
その浅野千代子の墓は、横浜市鶴見区にある曹洞宗大本山総持寺にあります。曹洞宗と言えば、福井県にはもう一つの大本山・永平寺があります。曹洞宗は両大本山ですので、総持寺はそちらと並んでどちらも大本山。大きな伽藍を有する広大な寺院で、特に総持寺内には石原裕次郎さんのお墓があることでも知られています。

この境内の一角にある浅野家歴代墓所は塀に囲まれた広い敷地で、千代子は夫の二代目・浅野総一郎と並ぶ形で永遠(とわ)の眠りについております。なかでも初代夫婦、二代目、そして正妻・千代子の四基の墓石は本当に大きくて、私の身の丈の倍はあろうかという大きさです。そのためこれらの墓石は塀の外からも眺めることができます。初代・浅野総一郎が京浜工業地帯の大半を埋め立て、港湾埋立の会社『鶴見埋立組合(現・東亜建設工業株式会社)』の創業者でもあるため、この地域の開発者として、特にこのように大きな墓石を建てることができたのではないかと思います。

ところで、板垣退助とのゆかりといえば総持寺の入口、三門の左手の丘の上には、『自由党追遠碑』、『自由党大阪事件記念碑』の石碑があります。『自由党追遠碑』は自由党結成にも参加した杉田定一氏が建碑委員長を務め、文字は高知城公園の『板垣退助先生像』の台座(戦前)の題字を書かれた西園寺公望卿が揮毫、また『自由党大阪事件記念碑』は、玄洋社の総帥・頭山満翁が扁額を揮毫された歴史的価値のある貴重なもの。しかしこの石碑の所在は、境内案内図にも載っておりませんので、これらの石碑があることを知っている方は、今となっては余りおられないかもしれません。


  京都祇園『薩土討幕之密約紀念碑』建立
板垣百回忌が盛大に行われた翌年九月二十二日、京都祇園で『薩土討幕之密約紀念碑』が建立されることになり、その除幕式に髙岡さんから「除幕」の大役をご指名いただきました。当日のご来賓は、NPO法人板垣会からは副会長・谷是(たに ただし)さま、高知の中岡慎太郎先生顕彰会の理事長さまや、近畿鹿児島県人会の会長さま、また勤皇の忠臣として楠木正成公の御子孫・楠正至(まさちか)さま、楠正浩さま等、錚々たる方々ご臨席のもとでの除幕は、単なる軽い歴史趣味人の私にとって、記念書籍『板垣精神』の表題揮毫に続く大役となり、冷静に考えると大変なプレッシャーでしたが、たってのお申し出を固辞できず、粛々とその大役を務めさせていただきました。


  板垣退助の遺伝子の解析と特定
ところで、板垣退助先生顕彰会では「板垣退助の遺伝子の解析と特定」というユニークな試みに取り組んでおられます。板垣退助の子孫からDNAを採取し、その共通の遺伝子を特定していく試みです。解析内容はY染色体およびミトコンドリアDNA、そして、常染色体です。子孫から採取したサンプルをヒューストンの解析センターに送って、世界最高精度の分析にかけます。ゆえに出来るだけ多くの子孫から採取するほど精度が高まります。板垣顕彰会では百回忌の前後を含めて、お会いした方々から了解をとって解析を進めて来られましたが、私の場合はその機会がなかったため、この除幕式の当日、少し時間をとってこの採取に協力しました。結果が出るのに約半年。板垣守正さんの長男・正明さんの遺伝子解析の結果を軸に「ファミリー・ファインダー」という機能で比較すると、どの遺伝子のどの箇所が共通しているのか、図式化、数値化されて特徴が浮かび上がって来ました。板垣退助のY染色体については、記念書籍『板垣精神』に詳述されているので解析結果はそちらを御覧いただきたいのですが、ちなみに私自身のY染色体はハプログループD1a2a1a2b1a1a8aで、一塩基多型で申しますとD-CTS8093。更に細かく言えば、CTS8093からFT117379に分岐した直下のCTS4093に属しているそうで、浅野家の男系祖先は、縄文時代以前から連綿と続く日本人の古い系統の枝に属しているとのこと。分子生物学の発展によって、日本史のみならず人類学の領域へ遡ることのできる現代の技術に感動しました。


  高知・板垣山の墓地整備
板垣退助の分骨墓のある板垣山へは令和三年(二〇二一)七月十六日に髙岡さんにご案内いただき始めてお参りすることが出来ました。同年の三月十二日、高知県の配慮によって、お墓参り用の駐車場が整備されたとのことで、板垣顕彰会の予算で標柱杭が製作され、私がその仕上げとなる杭の〆打ちをさせていただきました。当日は生憎の雨。かつ毎年高知のNPO法人板垣会さま斎行の命日法要は、コロナ禍のため延期の措置となったため、髙岡さんと私の玄孫二人で連れ立って髙野寺へ赴き、菩提寺の島田定信名誉住職にご挨拶。高知の奉納位牌に対面して香華を手向け、お参りをして略式の法要といたしました。また高知城公園の『板垣退助先生像』、翌日は高知市立自由民権記念館、潮江新田の板垣退助邸跡を巡り、心に残る思い出となりました。


  東京青梅の板垣像と岩浪光二郎
東京には国会議事堂以外に戦前は芝公園に板垣退助像が建っていたそうです。しかしこれは戦時中に金属供出されてその後再建されていません。その代わり、昭和三十六年(一九六一)、岩浪光二郎氏が中心となって、青梅市の釜の淵公園に、板垣退助像が建立されました。台座の案内板などによれば、板垣退助が多摩地方に来訪し、自由党有志の懇親会を行った当時のことを偲(しの)びこの地に建てられたとあります。写真を高知県出身の先輩に見せたところ「俺は土佐の板垣さんの像のほうが懐かしいし恰好よくて好きだけど…。青梅の像の方が土佐人っぽい体型な気がするな。ライオン宰相・濱口雄幸さんの像と風貌が似ているかも」と笑っていました。ちなみにこの銅像のある場所から多摩川沿いを少し下った調布橋の袂(たもと)に、青梅の板垣像を建ててくださった岩浪光二郎氏の銅像(胸像)があります。岩浪氏は調布村(現・青梅市)の村長を経て東京府会議員、東京都議会議員を歴任された三多摩の偉人です。彼の銅像が調布橋の脇にあるのは、彼がこの場所に歴年風雪に耐える安全な鉄橋を架けることに盡力した功を顕彰したもので、昔は井戸を掘ったり、橋を架けたり、治水や道路を作ることは今とは比べものにならない程の難事業。公益に資するものであったため、成功すれば多くの人から感謝されますが、資金を調達し、カリスマ性を発揮し、粘り強い精神と志が無ければ到底達成できませんでした。また調布村の東京府編入に盡力されたことも彼の功績の一つに数えられています。
そういった経緯があって、この場所に岩浪氏の功績を讃える銅像が建てられたのですが、その岩浪氏は板垣退助を厚く敬仰し、まさに板垣精神の実践者の一人であったと言えます。そして、彼の開発者としての姿は、わが祖・浅野総一郎と重なるものがあり、政治家としての姿は板垣退助を髣髴させるものを感じました。髙岡さんは、青梅の銅像には未訪問とのことですので、板垣退助の銅像と共にそれを建てた岩浪光二郎氏の銅像もご案内できたらと思っております。


  むすび
さて、近年の所懐をしたため、あらためて想い返すと髙岡さんと初めてお会いした頃はまだ、世界的なコロナ禍は無く、加えてロシアの脅威、ヨーロッパの不幸、台湾有事を予感させる不穏な情勢等々は水面下の出来事でした。それに引き換え、令和二年(二〇二〇)以降の世界は、激動と混迷の時代に入ったように思えます。…とはいえ、我々はそれを乗り越える知恵を歴史から学ぶことができます。幕末・明治・大正と続いた激動の時代も、その学ぶべき価値のある時代の一つではないでしょうか。「九転十起の人」と称され事業の失敗と成功を繰り返した初代・浅野総一郎、自由民権運動を起こして真の民主政治実現にむけて一生涯を走り続けた板垣退助らに思いを馳せる時、歴史は未来に向かって何事も恐れず、不断の努力をもって人生を切り拓(ひら)いた人達によって造られたものではないだろうかと深く感じるところです。私事で恐縮ですが、本年、諦めかけていた結婚もできました。私も努力を惜しまず未来への希望を持ち、微笑みながらパートナーとこれからの人生を歩んでいきたいと考えております。


  参考文献
●『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編、平成三十一年 (二〇一九)二月十一日
●『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治十五年(一八八二)、(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)
●『九転十起の男・日本の近代をつくった浅野総一郎』新田純子著、毎日ワンズ、平成十九年(二〇〇七)四月二十五日
●『浅野総一郎の度胸人生・フリーターから東洋一の実業家になった男』新田純子著、毎日ワンズ、平成二十年(二〇〇八)八月
●『増補改訂 青梅市史(下巻)』岩浪光二郎氏は、昭和七年(一九三二)二月より昭和二十年(一九四五)十一月まで、調布村の村長を務めた。
●『郷土開発の父・岩浪光二郎翁』岩浪光二郎翁寿像建設協賛会編、昭和三十八年(一九六三)


※会報ご希望の方あれば、弊会からNPO法人板垣会(事務局:高知市)へ連絡いたしますので、きがねなくお問い合わせください。


前へ次へ
投稿日:2022/12/05

お問い合わせはこちら